2025年2月12日
(内容)
- しるしを見ないで信じることが大切である。しるしを求めるのはよこしまで神に背いた時代の者たちである、とイエスは指摘した。
(黙想)
- ファリサイ派や律法学者たちがイエスにしるしを求めた。彼らはイエスの働きを見ても信じようとはしなかった。22節以降の悪霊の追い出しに関する物語においては、イエスを悪霊のかしらを利用して悪霊を追い出していると非難をしている。彼らはしるしを求めた。イエスが病人を癒やしたり、悪霊を追い出したりしているのを彼らは知っている。さらにしるしを求めるとは、どんなしるしを求めているのだろうか。彼らはどんなしるしを見れば満足するのか、そしてイエスを認めるのか。
- しるしを求めることについて、イエスは、よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを求めると語る。しるしを求めることは、信仰の観点から見てよろしくない。自分たちが信じるためにしるしを見せてみろと神に要求するようなものだからである。イエスは既にしるしを与えている。人は信じるか否か、問われているのである。信じるかどうか問われているのに信じようとしないファリサイ派、律法学者の者たち。イエスが見せているしるしを見て信じようとせず、目の前でしるしを見せろと要求するのはよこしまで神に背いた者たちの仕業である。
- イエスは預言者ヨナのしるしの他には与えられないと語る。ヨナは神からニネベの町に行くように命じられた。彼はそれを拒んだ。船に乗っていた彼は嵐に遭い、大魚に飲み込まれた。しかし大魚の口から吐き出され、ニネベの町に行った。ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたがその後吐き出され、地上世界に戻った。これがヨナのしるしだという。
- イエスは人の子は、三日三晩大地の中にいることになると語り、ご自分の復活を語っているように見える。三日三晩暗い世界にいた者が明るい世界に戻るというヨナの体験。それはイエスの復活を指し示すものと考えることができる。イエスの復活は、イエスがメシアであることのしるしである。
- 次にイエスはファリサイ派、律法学者たちの不信仰を裁く者たちがいることを告げる。ヨナの説教を聞いて悔い改めたニネベの人たち。またソロモンの知恵を聞きたくて地の果てから見た南の国の女王。そして今の時代の者たち。これはイエスの働きを見てイエスを信じた人たちと言ってよい。
- 人は、信じるためにしるしを見せろと要求できる立場にはない。むしろ神から示されたしるしを見て、信じるか否か、人は問われるのである。しるしを要求するのは、よこしまで神に背いた者たちの仕業である。
- 聖書は色々なメッセージを伝えており、時にそれらを信じることができないことがある。死者の復活は、現代人には信じがたいものがある。終末の事柄も、絵空事に見えることもある。あるいは自分のおかれた苦しい状況のゆえに、神を信じられなくなり、神がおられるなら、何かしるしを見せて欲しくなることもある。
- イエスはご自分のことをヨナにまさる者、ソロモンにまさる者であると語る。しかし人は自分の目の前にいる人の平凡な姿を見て、その平凡さゆえに信じることができないこともある。イエスは確かに奇跡を行ったかも知れない。でもその姿の平凡さゆえに人は信じないこともある。人は外見を見てしまう。イエスは十字架につけられて死んでしまうのである。
- イエスは、宗教指導者と言える律法学者やファリサイ派の人たちの不信仰に直面している。信じようとしない彼らの傲慢さ、頑なさを見る。イエスはどう思っているのだろうか。裁きの時に、裁かれることになると警告している。信じない者がいることは残念なことであるが、信じるか否かは、人間の自由である。
- 現代では、神を信じることは愚かなことであると考え、信仰に見向きもしない人が多い。裁きの時に彼らはどうなるのか。信じようとしない者を導くことは簡単ではない。裁きの時、とイエスは警告を与えるにとどめている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは救い主である。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>しるしを求めない。
- <勧め>イエスをメシア救い主と信じよう。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。考えてみれば、聖書が存在する、それは不思議なことです。人間の手によって書かれたものですが、真理が書かれています。真理と信じるに足ることが書かれていると思っています。
- しかし中には、本当か、と思えることも書かれていますし、信仰者として生きる時、神は本当におられるのかと思う時があります。苦しみの中で助けが与えられず、神に見捨て得られたのか、神は本当にいるのかと思うこともあります。そんな時、私たちはしるしを求めたくなります。でもそれは、よこしまで神に背いた時代の者たちであるとイエスは語ります。
- 私自身のことを言えば、老いており、自分の死を意識して生きています。死を越える希望を少しでも確かにしたいと願っています。聖書が告げる終末の事柄を信じることは課題です。終末の事柄は、それを自分の事柄と受けとめる時に、信じることができると知りました。終末の時、それは完成の時です。罪を犯して生きていた者が信仰を得、キリストに従い、キリストの似姿を追い求める歩みをし、御国に迎えられた時、御子の姿に変えられるという栄光が待っていることを知る時、終末を我がことと信じることができるようになり、感謝です。
- イエスは、私たちに信じることを求めています。とんでもないことを信じるように求めているわけではありません。聖書を読むなら、信じることがむしろ人間として正しいとさえ思います。信じることをためらわせるのは結局、人間の罪です。
- 私を信じる者となります。どうぞ導いてください。聖霊の導きにより信じる者とならせてください。また「信じること」を語る聖句を探してみたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 信じる者にならせてくださいと祈り求める。
- 信じることを語る聖句を探してみる
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マルコ 9:24
その子の父親はすぐに叫んだ。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」ヘブル 11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。マタイ 8:13
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。ヨハネ 20:27
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」マルコ 11:23
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。ヨハネ 5:24
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。ヨハネ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。ローマ 10:11
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。コリント一 2:5
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。ペトロ一 2:6
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」