2025年3月15日
(内容)
- イエスはたとえを語る理由を語る。たとえを聞いてどう受けとめるか否か、それがイエスを信じるか否かを決めることになる。
(黙想)
- イエスは群衆にたとえを語った。弟子たちはなぜ、群衆にたとえで語ったのかとイエスに尋ねた。
- 11節のイエスの言葉は興味深い。弟子たちは天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)は許されていないという。許すのは神である。神は天の国の秘密を悟ることが許されている人と許されていない人を決めているという。
- すると神は不公平だという声が上がるかもしれない。あなたは、天の国の秘密を知ることが許されない人であると神が言うとしたら、これはひどい。誰だって天の国の秘密を悟る権利があるはずで、悟ることを許されない人と決められてしまうなんてひどいと神への抗議の声が上がっても不思議ではない。
- 信仰に入るか入らないか、それは人間の自由な決断による。キリスト教の伝道は、相手を洗脳し、気づかずに信仰に入るように仕向けることはしない。礼拝の説教を聞き、自分で聖書を読み、祈り、その上で信仰に入るか否かを決めるのは人間の自由である。信仰は強制されない。
- しかし同時に信仰は神の賜物である。この賜物を与えられてこそ、信仰に入ることができる。目に見えない神、自分の罪を知ること、悔い改めてキリストによる救いを受け入れること、これは神の導きなしには実現しない。
- 神は誰を導くのか。神は天の国の秘密を知ることが許されている人とそうでない人を決める。これは神の自由な判断であり、神の選びである。
- 信仰は人間の自由な決断であるが、同時に神の選びによって可能となる。
- イエスはたとえを語る。たとえは一種の「ふるい」ではないだろうか。天の国に関心を示す人とそうでない人をふるいに分けるのである。たとえを聞いて関心を示した人はたとえの意味するところを聞き、さらにイエスの教えを求めて聞くことになる。
- イエスはたとえを招きとして語っているのではないか。イエスの話を聞いて、信じる人がいれば、信じない人もいる。これが現実である。イザヤの言葉は、信じない人のいる事実を語っている。
- 信じる人と信じない人がいる。信じるか否かは、人間の自由である。他方で、信じる人は神に選ばれた人であり、信じない人は神に選ばれていないのである。人間の自由と神の選び。
- イエスを信じる人は、自分が神に選ばれていると信じ、確信し、信仰に励むことが大切となる。それは自分が神に選ばれていることの証しとなる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>父なる神は、天の国に秘密を知ることを許される人と許されない人を定める。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスを信じる者は、神に選ばれていると信じ、信仰に励むこと。天の国の秘密を知るようにすること。イエスが語る天の国のたとえを理解すること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日は、人間の自由と神の選びについて考えさせられました。
- 洗礼を受けても教会に来なくなる人がいます。教会に戻るように祈り続けている人がいます。人間には、誰が神に選ばれているのかは分かりません。再び、教会に戻ってくるかもしれません。しかし、神に選ばれていないので戻ってこないかもしれません。
- ウェストミンスタ信仰告白は、「有効召命」という言葉を使い、神に選ばれて信仰を持った人を、有効召命を受けたと語ります。礼拝に来る人の中でも、神に選ばれた人とそうでない人がいるというのです。主イエスも、麦畑に毒麦が生えていると語られました。大事なのは、自分が神に召されて信仰者になったと信じ、信仰に励むことですね。自分が信仰者になった、そのことは神の選び、神の召しがあってのことだと考えます。自分は神の選びの中にあると信じてよいということですね。
☆与えられた導き
- 自分が神に選ばれ、救いへと選ばれていると信じ、感謝し、信仰の歩みを続ける。聖書を読む生活を続ける。