2022年5月20日
(内容)
- キリスト者はイエス・キリストのものとなるように召された者である。
(黙想)
- 召されている。神が私を召している。信仰とは、この神の召しに生きることである。自分の必要を満たすために神を信じるのではない。自分の必要を満たすために神を信じてもよい。しかしそこに留まっていてはいけない。神は私たちをさらなる高みへと導かれる。つまりイエス・キリストのものとなるように私たちは召されている。招かれている。
- イエス・キリストのもの、これをどう理解するのか。
レビ 20:26 あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。
詩編 100:3
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。イザ 43:1
ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
- 旧約聖書には、イスラエルの民は神のものであるとの理解があり、キリスト者がイエス・キリストのものであるも、同じ考えである。「聖なるもの」という言葉があるが、神に属するものは聖なるものである。従ってイスラエルの民は、神の民であり、聖なる民である。だから神は彼らに聖なる者になりなさいと命じられる。イスラエルの民は神に帰属するのである。神につながり、神との関係に生きる。
- 我々はこの世にあって色々なものに帰属している。第一に国家。私たちは日本の国民である。日本人として生きている。ある人は会社に帰属している。また家庭、家族に帰属している。地域に帰属している。帰属するとは人が生きる基盤が与えられているということである。
- 神のものとは、神の所有物という意味ではない。神に帰属し、神との関わりに生きるものとされていることを意味する。言い換えると神との交わりに招かれているといえる。
- 私がイエス・キリストのものという時、私はイエス・キリストに帰属する者である。そこでキリスト者、クリスチャンと呼ばれる。イエス・キリストとの交わりに生きる者とされているということである。イエス・キリストは私の主である。主は私の羊飼い、私は主の羊である。主はぶどうの木、私はこの木につながる枝である。私は主とのつながりに生きる者、それがイエス・キリストのものであるとの意味だと思う。
- キリスト者は主との交わりに生きるように召されている。
- 僕は自分なりにイエス・キリストとの交わりに生きてきた。そして今、老人となり、この世の歩みの終わりを意識するようになってきた。ある意味、神とのさらに深い交わりに生きていきたいと思う。そしてそれは永遠につながる交わりである。神の国での神との交わりにつながるものである。パウロは、早くこの世を去ってキリストと共にいることを切に願うと書いている。老いて新たな段階を生きることになったのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>私たちをキリストの者となるように召す方
☆神が求める私たちの生き方
- <教え>イエス・キリストのものとして生きること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は、イエス・キリストの者として生きるように召されていることを聖書から読みました。私はイエス・キリストのものとして、キリストとの交わりに生きてきました。そして今、自分が老いの中にあり、この世の歩みが終わりに向かっており、神の国を意識するよう召されていると思いました。
- 使徒パウロは、この世を去ってキリストと共にいることを熱望すると書いています。私も人生の最終段階に入ったことをあらためて意識します。
- 夜、寝る前に聖書を通読しています。終末に関わる言葉があれば、それを取り出し、ノートに書き出したいと思います。自分の死の向こうにある世界を確認したいと思います。
- そしてP.トゥルニエに『老いを生きる』をもう一度読んでみたいと思いました。あなたとの交わりを深め、霊的な歩みを深めたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- 聖書通読に際して、メモを取ること
- トゥルニエの本を読むこと