2020年8月21日
(内容)
- 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るように教えられる。それは天の父の子となるためである。
(黙想)
- 5章始めからの一連のイエスの教えは、クリスチャンへの教えである。敵を愛せよ、とは強烈な教えである。反感を呼び起こさずにはおれない教えでもある。この教えは天の父の子となるため、とイエスは語る。この敵を愛しなさいという教えの背後には、クリスチャンが天の父の子となるという目的があることを見失ってはいけない。もしクリスチャンが天の父の子であるなら、敵を愛しなさい、となる。
- そこでまず問われるのは、私は天の父の子なのかどうか、天の父の子となりたいと願っているのかどうか、それがこの「敵を愛しなさい」という命令であきらかになる。この段落の最後でも、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とイエスは命じている。人間は神に似せて造られた。それゆえ、神のようになることが目指されるのである。他の箇所では、神が聖なる者なので信仰者も聖なる者となれとの教えが語られている。
- イエスを信じる者は神の子とされていると聖書は語る。天の父の子とされている。神の子、それはクリスチャンと者のアイデンティティーである。このアイデンティティーに生きるかどうかが問われる。
- ファリサイ派や律法学者たちは神の律法を守っていないからといって、徴税人や異邦人を嫌っていた。ここのイエスの教えは彼らに対しても強烈な問いかけである。あなたがたは天の父の子なのか。天の父の子として律法を守っているのか。もうしそうなら敵を愛しなさいとのメッセージである。彼らはこのメッセージを受け入れるのだろうか。イエスはおかしな奴だと非難すれば、このメッセージから逃げることができる。
- クリスチャンは愛に生きるように召されていることを強く教えられる。クリスチャンとして生きるようにこの教えは我々に挑戦している。クリスチャンを名乗り、天の父の子となることを目指さないのなら、我々は見せかけのクリスチャンとなる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>完全な方である。
- <御父>善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる。
☆神が私たちに求める生き方
- <命令>敵を愛し、迫害する者のために祈る
- <勧め>天の父の子となる。
- <教え>自分を愛する者を愛することは、だれもが行っていること。敵を愛することはできないというなら、それはクリスチャンをやめ、信仰のない人と同じ人になる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もディボーションをすることができ感謝します。敵を愛しなさいとの教えをしかと受けとめます。私はあなたの子、神の子として歩みます。徴税人や異邦人のように、自分を愛する者を愛するだけにとどまることはしません。主イエスの教えを実践します。
- 今の私の敵、私を迫害する者は誰かと思いますが、特に思い当たりません。いろいろ思いめぐらしましたが、言葉をないがしろにする者は私の敵であると思いました。福音を宣べ伝える者にとって言葉をないがしろにする者は敵です。私たちは言葉を大事にします。
- 私の敵、それはこの国の総理大臣です。何か問題が起きると「責任を痛感します」と口には出しますが、責任を取る行動は何もしません。口先だけです。有言実行ではなく、口先だけでごまかしています。私にとっては大いなる敵です。言葉を軽く見るという風潮が世の中に広まらないか、と危惧します。彼を支持する人は少なくないのです。それは言葉を軽く見る人が多いことを示唆します。
- 福音を宣べ伝える者は聖書の言葉が真実であることを口で語るだけではなく、自ら語る言葉に生き、聖書の言葉が真理であることの証人として歩みます。
- 口先だけの指導者を私は憎みます。これまで神さまが一日も早く権力の座から退かせてくださるように祈ってきました。今日の聖書を読んで、この祈りは御心に適わないことを知りました。私は愛するべきでした。そこで祈りを変えることにしました。今日から、彼が有言実行の人になるように、責任を痛感していると告白するなら、具体的に責任を取る行動をする人になるように祈りたいと思いました。
- 今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- この国の総理大臣のための祈りを変える。