2021年3月10日
(内容)
- ゲッセマネの園でイエスは祈られた。3人の弟子をそばに伴われたが弟子たちは眠ってしまった。「わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られた。
(黙想)
- イエスは祈る前に三人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われた。
- 「死ぬばかりに悲しい」。悲しみのあまり死ぬほどであるとの意味。悲しみに押しつぶされてしまいそうだとの意味。この「悲しい」という言葉、ギリシャ語が用いられている聖書箇所がある。
- 一つはマルコ6:26。へロディアの娘サロメのおどりを喜んだヘロデ王がサロメに欲しいものは何でもあげると約束した時、サロメはヨハネの首をといった。洗礼者ヨハネの首である。そのときヘロデ王は「心を痛めた」とある。この場合は強い後悔の念を指していると思われる。あんな約束をしなければよかったという後悔。そしてヨハネを殺させてしまうことへの申し訳なさがある。
- もう一つはルカ18:23。金持ちの議員がイエスのもとに来て何をすれば永遠の命が与えられるでしょうかと聞いた。
ルカ 18:20~23
『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
- 「非常に悲しんだ」。この金持ちの場合、永遠の命を求めていた。しかしイエスの答えは実行できなかった。イエスの言うとおりなら、自分は永遠の命を得ることができない、そのことを悲しんだことになる。永遠の命をあきらめる、これはとてつもない悲しみである。この「悲しい」という言葉は複雑な意味合いのあることが分かる。
- イエスの場合の悲しみも尋常ではなく、「死ぬばかりに悲しい」。悲しみの余り死ぬほどであるというのである。悲しみに押しつぶされて死にそうだという。イエスは一体何を悲しんだのか。イエスは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈った。それは十字架の死を直接味わわなくていいようにとの祈りである。十字架の死という苦難が、自分のそばを通り過ぎるようにとのことで、十字架の死を経験しなくてすむようにとの祈りである。イエスの悲しみと十字架の死とは無関係ではない。大いに関係がある。
- そしてイエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた。イエスの悲しみとは、父なる神に見捨てられる悲しみなのか。だからこのような悲しみに遭わせないでと祈ったのか。これは違うような気がする。十字架上での叫びは、あらかじめ予想できたものではなく、十字架につけられて初めて味わった深い絶望から出た叫びであると思う。だから「父なる神に見捨てられる悲しみ」ではないと考える。
- あるいは不安なのか。これから起きることへの不安。イエスはこれまでに三度、弟子たちに自分が苦しみ会い死ぬこと、そして3日目に復活することを語っている。しかしそこに至るまで起きる一つ一つのことについて不安があると考えることはできる。しかしイエスは大いなる悲しみを味わっているのであり、悲しみと不安は違う。
- 神の御心として自分自身を犠牲としてささげることへの悲しさか。それは尊い死であるかも知れないが、やはり辛い。神の子であり、父なる神に従って歩むわけだが、そこまでしなければならないのか。それほどまでに人間の罪は重いのか。父なる神への徹底した従順。あまりにも悲しい定めだ。
- それともイエスは十字架の上で犠牲として死ぬわけであるが、その死の過程において、身をもって罪を償うことを知っての悲しみか。旧約において罪の赦しを得るために動物の犠牲をささげた。動物の死、いいかえると動物の命をもって償いとした。イエスも罪の赦しのための供え物の死を死ぬわけであるが、単に十字架の上で処刑されて死ぬということではない。その死の過程で、罪を償うという行為を身をもって味わうとしたらどうなるのか。つまり罪に対する神の裁きを受けるのである。すべての人類の罪に対する神の裁きを受けるのである。そのことへの恐れ、不安があったのではないか。イエスは二人の弟子を伴い祈りの場所に行く時、「悲しみもだえ始められた」とある。死の過程の中で、神の裁きを受けるのである。神の裁きを受けることは分かっていても、それがどのようなものか分からない、そこにもだえた原因があるのではないか。この裁きを受けることに悲しみを覚えたのかも知れない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>十字架の上で神の裁きを受けることを思い、悲しみもだえた方。神の裁きがどのようなものであるかはイエスは知らない。ただ裁きを受けることだけを知っており、悲しみもだえられた。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>イエスの悲しみを知る時、罪に対する神の裁きの重みを思わされる。自分の罪がイエスに悲しみを味わわせている。
- <教え>このイエスの悲しみを知らずして、イエスのことを知っているとは言えない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日はゲッセマネの園のイエス様を思いめぐらすことができ感謝です。イエス様の悲しみが何であったのか、少し理解できたように思え感謝です。イエス様は十字架の上で、現実にあなたの裁きを受けたのですね。今日の聖書では、イエス様は神の裁きを受けることを覚えて悲しみもだえられました。神の裁きの内容がどのようなものであるかはご存じではありませんでした。それが何であるかを知ったのは十字架の上でした。神に見捨てられるというのが神の裁きでした。神に見捨てられる、それは永遠の滅びです。
- いまだ永遠の滅びが現実感をもって理解することはできませんが、私たちの救いは「永遠の滅び」からの救いであることを受けとめます。イエス様の十字架の悲しみを知らなければ、永遠の滅びを受けとめることはできないと思いました。今日、この箇所をディボーションできて感謝です。イエス様の心理を聖書は書いていませんが、思いめぐらすことはイエス様を知る上で大切と思いました。
- イエス様の悲しみと永遠の滅びについて、思いめぐらしたいと思います。さらに聖書を読む時、イエス様を知るという目的でさらに読んで行きたいと思います。
☆与えられた導き
- イエス様の悲しみと永遠の滅びを心に留める
- 聖書を読む時、イエス様を知ることを大切にする