2023年7月7日
(内容)
- 心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。
(黙想)
- 第一に、キリスト者といえども、心の清い人はいない。人の心は罪に傾いており、汚れている。
マル 7:15
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
- 人間の心の中から悪い思いが出てきて、それが行動となり、人は罪を犯す。人は罪で汚れた者となる。
- 人の心からは悪い思いだけが出てくるとは言えない。よい思いもある。清い思いもある。悪い思いはなくならない。到底、心が清いとは言えない。
- 心が清いとはどういうことなのか。信仰者として考えるなら、真っ直ぐに心が神さまに向いている心を言うのではないか。
- 清くない心とはどんな心か。自己中心的な思いが混じっている心。偽善的な心。御心に背く心。二心を抱く心。・・・。
- ダビデは詩編51で、「神よ、わたしの内に清い心を創造し」と祈っている。清い心は神が与えるものである。
- 神は、世の初めに、聖なる者、汚れのない者となるようにキリストにあって私たちを選んだとある(エフェソ1:4)。私たちが心の清い者となることは神の御心であり、神の願いである。
- 神は私たちを義とし、私たちが聖なる者として歩むこと、心の汚れから離れて歩むことを望まれる。聖霊を私たちのうちに住まわせ、み心に従うように導かれる。心が清くなるのは、神の導き、聖霊の助けが必要であるが、同時に清くなることを願う人間の努力も必要である。
- 私たちは100%心の清い者にはなれない。しかし、昨日よりは今日、今日よりは明日、聖霊の導きにより少しでも清くなることはできるのではないか。
- 聖書に親しみ、神の御心に心を向け、御心に生きる努力が大切となる。また神が私たちに与えた思いはきちんと受けとめて生きること。
- フィリピ 1:6
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 - フィリピ
2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 - 神は私たちに働きかけるお方であり、この神の働きかけに対して敏感になり、その働きかけに応じて生きることも、心の清さである。
- 神を見るとはどういうことか。神は肉眼で見える存在ではない。それなのに「見る」とはどういうことか。神の心が分かる、神の心に触れる、神の心を知る。そして神の心に共感することと言えないか。日々の生活の中で神の導きを思うとき、神を見たと言えるのではないか。
- 人間は自己中心の思いで心は汚されているので、新たに生まれないと、神の心に共感はできない。神の心は、聖書を通して知ることになる。聖書以外に神の心を知ることはできない。
- 神の国に行った時、顔と顔を合わせるように神を見ることができる(コリント一13章)。これは私たちの希望である。
- 神の御心を神の御心として敬い、これを重んじる時、私たちは神の心を知る。それは神を見ることにつながる。生活の中で神の導き、神の働きかけを受ける時、神を見たと言うことができるのではないか。
- イエスは、私たちが心の清い者を目指すことを望んでおられる。今自分の中に清めるべき思いが心の中にあるのか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>私たちが聖なる者、汚れのない者となるように私たちを選ばれた方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>キリスト者は、心の清い人を目指す。心の清い者としての歩みを行う。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私たちは自分の心が利己心で汚れており、心の清い者になることのできない者です。しかし、あなたは私たちが聖なる者、汚れのない者となるように、キリストにおいて私たちをお選びになりました。
- 私たちをキリスト者となるように導いてくださいました。聖書を読み、あなたの御心を知ることができるようにしてくださいました。それゆえ、御心に歩む者となります。どうぞ導いてください。
- まず、今自分の心の中に清めるべき思いがあるかどうか、探ります。あれば、清めるべく、あなたに祈ります。
- 心の清さについて聖書がどの箇所でどのように語っているのか、学んでみたいと思いました。心の清さについて考えを深めたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- 心の清さについて、聖書に学ぶ。