2024年9月19日
(内容)
- キリスト者の今の苦しみは、将来現される栄光と比べると取るに足りない。希望を持って忍耐をもって今を生きよう。
(黙想)
- パウロは18節で、現在の苦しみは、将来私たちに現される栄光に比べれば、取るに足りないと思うと語った。19節以降は、その理由を示すことになる。
- 現在の苦しみについて、パウロは被造物の苦しみとキリスト者の苦しみを告げる。そして被造物もキリスト者も、将来現される栄光を待ち望んでいるとする。
- 被造物について言うと、被造物は虚無に服しているという。それは神の御心による。おそらくそれは人間の罪の結果もたらされたものである。被造物は滅びへの隷属から解放され、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかることを望みとしている。その日まで、被造物は、うめき、産みの苦しみを味わっているという。
- キリスト者について言えば、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいる。キリスト者の体は、罪によって死んでいる(8:10)。罪に支配されている体(6:12)であり、体の欲望は罪に利用され、私たちに罪を犯させる(6:12)。この体のために、キリスト者の歩みは罪との戦いという面がある。この体が贖われることをキリスト者は願う。贖われてキリスト者は、まことの人、キリストに似た人として栄光を与えられることになる。
- 将来訪れる救いの日、キリスト者は体が贖われ、神の子とされ、神の子としての栄光に輝く。被造物も滅びへの隷属から解放され、神の子の栄光に輝く自由にあずかる。その時、被造物は、神をたたえることになる。それが被造物の栄光である。
- キリスト者が抱く希望は、体が贖われ神の子とされることである。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(8:29)。御子の姿に似た者となる、それが目標である。
- この希望を忍耐をもって待ち望むのである。現在の苦しみを忍耐し、来るべき日を待ち望むのである。
- その忍耐とは何もしないままの忍耐ではなく、体との関わりの忍耐である。
ローマ 6:12
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
- この世にあって、キリスト者は、体を罪に支配させてはならず、体の欲望に従わないという信仰の戦いをする。これが忍耐の内容でもある。そして現在の苦しみでもある。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <約束>体が贖われ、神の子とされる時が来る。
- <勧め>忍耐をもって信仰の戦いをする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 「神の子とされ、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望む」とありました。私たちは心の中でうめきながら、今を待ち望みながら生きる者であることを教えられて感謝です。
- 私の心は、晴れやかではありません。スッキリしていません。望みをもってハレルヤと叫びながら生きることはできていません。私の魂のうめきとして、晴れやかではない心があると教えられました。うめきながら待ち望むとあるので、うめきはなくならない、と教えられました。大切なのは、何を待ち望むのか、それをはっきりさせることですね。神の子とされ、体の贖われることを待ち望むのですね。
- いきなりこう言われても、どこか抽象的です。具体的なイメージにできればと思います。
- 自分の理解が聖書の語ることに追いついていません。それゆえ、聖書に書いてあることを自分のこととして理解できるように、あなたの導きを求めます。導いてください。
☆与えられた導き
- 神の子とされ、体が贖われることのすばらしさを教えてくださいと祈り続ける。