ローマ 8章18~25節 キリスト者の苦しみと栄光

2024年9月19日

(内容)

  • キリスト者の今の苦しみは、将来現される栄光と比べると取るに足りない。希望を持って忍耐をもって今を生きよう。

(黙想)

  • パウロは18節で、現在の苦しみは、将来私たちに現される栄光に比べれば、取るに足りないと思うと語った。19節以降は、その理由を示すことになる。
  • 現在の苦しみについて、パウロは被造物の苦しみとキリスト者の苦しみを告げる。そして被造物もキリスト者も、将来現される栄光を待ち望んでいるとする。
  • 被造物について言うと、被造物は虚無に服しているという。それは神の御心による。おそらくそれは人間の罪の結果もたらされたものである。被造物は滅びへの隷属から解放され、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかることを望みとしている。その日まで、被造物は、うめき、産みの苦しみを味わっているという。
  • キリスト者について言えば、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいる。キリスト者の体は、罪によって死んでいる(8:10)。罪に支配されている体(6:12)であり、体の欲望は罪に利用され、私たちに罪を犯させる(6:12)。この体のために、キリスト者の歩みは罪との戦いという面がある。この体が贖われることをキリスト者は願う。贖われてキリスト者は、まことの人、キリストに似た人として栄光を与えられることになる。
  • 将来訪れる救いの日、キリスト者は体が贖われ、神の子とされ、神の子としての栄光に輝く。被造物も滅びへの隷属から解放され、神の子の栄光に輝く自由にあずかる。その時、被造物は、神をたたえることになる。それが被造物の栄光である。
  • キリスト者が抱く希望は、体が贖われ神の子とされることである。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(8:29)。御子の姿に似た者となる、それが目標である。
  • この希望を忍耐をもって待ち望むのである。現在の苦しみを忍耐し、来るべき日を待ち望むのである。
  • その忍耐とは何もしないままの忍耐ではなく、体との関わりの忍耐である。

ローマ 6:12
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

  • この世にあって、キリスト者は、体を罪に支配させてはならず、体の欲望に従わないという信仰の戦いをする。これが忍耐の内容でもある。そして現在の苦しみでもある。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <約束>体が贖われ、神の子とされる時が来る。
  • <勧め>忍耐をもって信仰の戦いをする。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
  • 「神の子とされ、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望む」とありました。私たちは心の中でうめきながら、今を待ち望みながら生きる者であることを教えられて感謝です。
  • 私の心は、晴れやかではありません。スッキリしていません。望みをもってハレルヤと叫びながら生きることはできていません。私の魂のうめきとして、晴れやかではない心があると教えられました。うめきながら待ち望むとあるので、うめきはなくならない、と教えられました。大切なのは、何を待ち望むのか、それをはっきりさせることですね。神の子とされ、体の贖われることを待ち望むのですね。
  • いきなりこう言われても、どこか抽象的です。具体的なイメージにできればと思います。
  • 自分の理解が聖書の語ることに追いついていません。それゆえ、聖書に書いてあることを自分のこととして理解できるように、あなたの導きを求めます。導いてください。
☆与えられた導き
  • 神の子とされ、体が贖われることのすばらしさを教えてくださいと祈り続ける。

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