2024年9月24日
(内容)
イエスは弟子たちを派遣し、「天の国は近づいた」と宣べ伝えさせる。弟子たちの語る言葉を受け入れない者は、将来、神の裁きに遭う。語る者は、聞く人が福音を受け入れることができるようにていねいに語ることが大切である。
(黙想)
- イエスは弟子たちにどこに行き、何をすべきかを指示した。またある地域で伝道する際、どこに拠点を置いて伝道するのか指示をした。そして弟子たちの伝道を受け入れない町を去る時は、足の埃を払い落とすように命じた。その町は裁きの日、神の裁きを受けることになる。
- 弟子たちは、「天の国は近づいた」と宣べ伝えた。天の国が近づいたしるしとして病人を癒やし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払った。人々は、このような癒やしの中に天の国が近づいていること、つまり神が自分たちと共におられることを見たことになる。
- 弟子たちのおかげで、病気や悪霊を追い出されて感謝した人たちがいる。その中のある人たちは、自分の苦しみが解決したことを喜ぶだけの人もいただろう。つまりその奇跡に背後に神がおられること、これからの人生をその神との関わりで考えることはしないのである。また自分の苦しみが解決をしたことを喜び、さらに神を信じていこうとした人たちもいただろう。癒やしを目撃しただけの人でも、すごいものを見たとおしゃべりするだけの人もいれば、神を求めようと考えた者もいるに違いない。
- 弟子たちは、ある程度の働きをしたら別の町や村に移動する。神を信じようとした人たちに対して、信仰上のフォローをすることはしていない。またできない。後のことは神に任せるしかない。
- 教会で福音を聞き福音を信じた人は、その教会のメンバーとなり、牧会の対象となり、信仰上のフォローを受けることはできる。イエスの弟子たちと教会で福音を語る説教者とでは立場が違う。
- イエスの弟子たちの役目は、天の国が近づいたことを知らせることにあった。弟子たちはこれを忠実に行えばよいのである。後は神にゆだねるのである。
- イエスは弟子たちを受け入れない人、弟子たちが宣べ伝えたことを受け入れない人がいたら、その町を出る時、足の埃を払うことを命じた。それは裁きの日、神の裁きを受けることを意味する。福音が宣べ伝えられると信じる人がいるし、信じない人もいる。信じる人は救いに入れられ、信じない人は、神の裁きを受けることになる。
- ソドムとゴモラの地の方が軽い罰ですむということは、福音を信じないことは大きな罰を受けることを意味する。
- 今、この世界は一通り福音宣教が行われたと言える。教会は世界各地にある。しかし戦争が頻繁に行われている現状は、福音が信じられていない現実を物語る。平和を求めず、戦争を遂行する者たちは、神の御心に反し、神の裁きを受ける者となっていると言える。でも彼らは神を信じないし、平然と戦争を行っている。
- 教会は、伝道者は、世界に向かって福音を宣べ伝える使命を神から与えられている。信じる者がいるし、信じない者もいる。信じない人がいることに落胆せず、福音をきちんと伝えることが大切である。
- 福音を語った時、信じない者たちが神の裁きを受けるとするなら、福音を語ることに大きな責任がある。多くの人たちを招くことができるように聖書の真理を真剣にていねいに説教しなければならない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>弟子たちを宣教に遣わす方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>弟子たちは「天の国は近づいた」と宣べ伝える使命を与えられた。
- <警告>弟子たちの宣教のメッセージを受け入れない者は、裁きの日に、重い罰を受ける
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 私は牧師の働きから隠退しました。時に教会で説教奉仕をしますが、説教を聞く人たちへの牧会、信仰のフォローはしません。弟子たちが天の国の福音を巡回伝道者のように宣べ伝えましたが、私も奉仕のつど福音を伝えますが、伝えてその教会を去ります。
- この箇所を読んで、心に留まったことは、弟子たちが語ったことを聞いても信じなかった人たちは、裁きの日に重い罰を受けるという警告です。この警告を思うとき、説教者は福音を真剣にていねいに語るべきことを教えられます。聞いたことを受け入れるか否かは、聞き手の責任ですが、受け入れるか否かの判断をきちんとできるように、語る者は、喜びの知らせとして福音を伝えなければなりませんね。
- 10月には説教奉仕の機会が与えられているので、福音をきちんと語ることができるように祈りをもって準備をしたいと思います。
☆与えられた導き
- 説教奉仕の準備を深い自覚を持って行う。