2024年9月27日
(内容)
- 被造物は虚無に服し、滅びへの隷属の中に置かれているが、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる希望を持っている。
(黙想)
- 被造物に注目する。この被造物は何を指しているのだろうか。23節を見ると「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも」とあるので、私たちキリスト者は含まれていないことは明らかである。
- 19節には、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」。神の子たちの現れを切に待ち望む被造物とは何か。これにはキリスト者は除外される。人間以外のこの世界に生きている動物、植物はこのような希望を持っていると言えるのか。動物や植物がこのような希望を持っているかどうかは、わからない。動物や植物に知性があるという理解は一般的ではない。山、海、大地、星などはどうか。これらの自然も希望を抱くような知性を持っているとは思えない。
- あるいは、神を信じていない者たちを考えるとどうなるのか。彼らは明らかにそのような希望は持っていない。
- この被造物をキリスト者以外のものとする時、彼らは無意識のうちにこの希望を持っていると考えることができるのか。
- この地球に人口が増えた。人類は生きていくために、大地を人間に都合のいいように開発してきた。自然破壊をしてきた。環境を破壊してきた。そのような開発の中で、絶滅していった動植物も沢山ある。このような現実を思う時、被造物は虚無に服し、滅びへの隷属の中にあるという言葉が、現実感を帯びてくる。被造物は本来、神の栄光を讃えるべく創造された。でもその存在が脅かされつつある。だから、今一度滅びへの隷属から解放され、神をたたえるという本来の姿を回復するのを待っていると考えることはできる。でもパウロがこのような理解を持っていたかどうかはわからない。
- 創世記3章にアダムとエバが罪を犯した結果、大地は呪われたもになったとの記述がある。その結果、アダムは食べ物を得ることに苦しむこととなった。この大地の呪いをパウロが考えているのかどうかは分からない。
- この被造物に神を信じない者を考えることができる。神を信じないゆえに、生きる目的が分からず、空しさの中にある。信仰を持つ以前の僕はそうだった。無意識の内に虚無、滅びへの隷属からの解放を待ち望んでおり、きっかけが与えられ信仰へと導かれた。
- 神が世界を創造された時、神は世界を見て「よし」と言われた。被造物はそれぞれの仕方で神をたたえるものとして造られたのではないか。しかし人間が罪を犯し、大地が呪われた時、人間を含め、被造物は虚無に服した。被造物は滅びへの隷属の中に置かれた。神はまず、人間を救おうとされた。
- パウロは人間の救いだけでなく、救いを世界全体の救いを考えているのかも知れない。自然に目を向ける時、被造物の叫びを聞くことができるかも知れない。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>イエス・キリストによる救いを大切に考えること。
- <教え>神の子とされ、体が贖われる救いを待ち望むこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読み思いめぐらすことができ感謝します。パウロがなぜ、被造物についてこのように語っているのか、その理由を知りたいと思います。現代の私たちとパウロでは、自然観が違うのはないかと思います。この箇所の「被造物」をどう理解するのか、解釈が色々あるようです。先人が聖書に取り組んでそれぞれ解釈し、この箇所の理解を追求したのですね。解釈が色々ありますが、パウロの意図は明確だと思います。
- 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。パウロはこのことを説明するために、被造物のことに言及しました。将来現されるはずの栄光を理解し、現在の苦しみを忍耐をもってやり過ごすことが大事であると思います。
- 私が生きている現代の問題は、福音が信じられていないことであり、神は人々がなすがままに放置をされており、戦争により多くの人が苦しんでいるという現実があることです。権力志向の人間たちによる政治が苦しみを生み出しているという現実があります。福音を宣べ伝えようとしても思うように進展しない現実があり、このことに私たちは苦しみます。
- でも将来に現されるはずの栄光と比べれば、現実の苦しみは取るに足りないとのパウロの言葉を信じ、忍耐強く歩みたいと思います。最近「来たらせたまえ、主よ、御国を」と歌う讃美歌が心に響くのも、愛と平和に満ちた神の国を慕う思いがあるからなんですね。
- 戦争が早く終わるように、福音が世界各地に今一度宣べ伝えられるように、神の国の到来を祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- 戦争、福音、神の国を覚えて祈る。