2024年12月24日
(内容)
- イエスは、自分の活動の結果、知恵者や賢者が自分を信じないことを知った。でもそのことを神に感謝した。神の救いはそれを受け取るべく定められている人がいるのである。
(黙想)
- 10章でイエスによる弟子たちへの指示は終わった。11章に入ると洗礼者ヨハネが登場する。彼は、イエスが来たるべきメシアかどうか分からないでいた。洗礼者ヨハネはイエスの言動を聞いて、イエスが来たるべき方であるかどうか、分からないでいた。イエスに対して洗礼を施したのであるが。そこでヨハネは弟子たちをイエスのもとに派遣した。イエスは自分が行っていることを見て判断せよとヨハネの弟子たちに伝えた。
- またイエスは「今の時代を何にたとえたらよいのか」(16節)と語り、子供たちが「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」と歌うことに似ているという。イエスはメシアとして活動しているのに、人々は受け入れないとイエスは受けとめている。さらに人々がイエスについて、「大食漢、大酒飲みだ」(19節)と批判していると語る。そして悔い改めない町を批判している(20節以下)。
- 11章では、人々がイエスを信じない、受け入れない事実を繰り返している。そして25節である。イエスは神から遣わされたメシアであるが、知恵ある者や賢い者は、イエスがメシアであると信じることができない現実があり、これは神の御心にかなっているという。
- 福音・神の真理は、知恵者や賢者に通じるとは限らない。福音・神の真理は、理屈をこねる人間に受け入れやすいものではない。幼子のような者に示される。知恵者、賢者は、自分の考えを持っている。これに基づき、他の考えを分析する。自分の考えは絶対である。幼子は、自分の内にそのような考えを持たないから、福音、真理を受け入れることができる。
- 間違った考えに流されないためには、批判する心は大切である。しかし批判が過ぎると福音、真理を受け入れることができなくなる。自分の考えが中心になってしまうから。
- ポイントは、自分をどう見るかである。自分の力、自分の知恵を誇る者は、イエスを受け入れようとは思わない。自分のプライドを大切にし自分を誇る人もイエスを受け入れようとは思わない。自分の弱さ、無力さを認める人がイエスを受け入れることができる。自分の力では生きていくことができないと認める人が、イエスを受け入れることができる。
- イエスは父なる神を啓示すること、イエスは神からのメシアであることは、誰の目にも明らかなことではない。基本的に人間は罪を犯しており、これを認めない限り、福音はわからない。イエスは、人々に受け入れられない現実があっても、神をたたえている。
- 父なる神がいかなる方かは、イエスを通してのみ知ることができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>福音を伝えても人々がなかなか受け入れない現実があるが、イエスは父なる神をたたえている。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスを通して神を知ることができたことを神に感謝し、救いを与えてくださる神をたたえること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書を読むことができ感謝します。私は今ひとつの問いを抱えています。それは、自分が生まれてきたことをあなたに感謝できるか、という問いです。私は生まれたくて生まれてきたわけではありません。気づいたら生まれていたのです。そして人生を与えられています。そしてその人生には終わりが来ます。この人生を与えられていることを感謝できるかという問いです。どうしたら感謝できるかという問いです。神さまには申し訳ないような問いです。
- そして今日の聖書は、イエスを救い主と信じ、信仰に導かれ、信仰の人生を歩むことができたことをあなたに感謝し、あなたをたたえるように導かれました。私たちが神の国に迎えられた時、そこでは、私たちはあなたと共にあって、あなたとの祝福された交わりがあることを聖書から教えられています。人生は死で終わらず、神の国につながっています。
- 感謝できるかという判断基準は何かという問いのあることを今、思わされました。あなたは私の思いを遙かに超えたことを用意しておられます。そのことを思うと、人生を与えられたことを感謝できる基準を自分の中に持つことができると考えるのは、間違いであると思わされました。
- 今しばらく、この問いを抱きつつ、聖書を読んで行きたいと思います。それと同時に、感謝できるように、あなたに導いていただきたいです。あなたの導きを祈り求めます。
☆与えられた導き
- 人生を感謝できるように導きを祈っていく