マタイ福音書 12章9~14節 神に対して開かれた心

2025年1月16日

(内容)

  • 人々はイエスを訴えようとして安息日に病気を癒すのは律法で許されているのか、イエスに問うた。イエスは、安息日に良いことをするのは許されていると反論した。神の戒めは、それが何を目指しているかを理解することが大切である。

(黙想)

  • イエスを訴えようとする人たちがいた。彼らは「安息日に病気を癒すのは、律法で許されていますか」とイエスに尋ねた。イエスは、安息日に羊が穴に落ちたら助けないだろうかと尋ねる。誰もが助けるはずだとイエスは言い、人は羊より大切だ。安息日に良いことをするのは許されていると答える。病人を癒やすのも許されている。そして会堂にいた片手の萎えた人の手を癒やされた。それを見たファリサイ派の人たちは、イエスを律法違反者と考え、イエスを殺す相談をした。
  • ファリサイ派の人たちは、熱心に律法を守ろうとする人たちであった。しかし彼らは律法の意図、律法に込められた神の思いを考えることはなく、文字通り、表面的に律法を守ることに熱心であった。しかしイエスは、律法の意図、律法の意味を考えている。
  • 「安息日はこれを聖別せよ」。これはモーセの十戒の中にある。安息日は、神を礼拝する日として覚えよとの命令。そこで安息日には仕事をしないというのが、この戒めの適用となった。仕事をしなければ安息日を聖別していることになるのか。安息日を特別に神をおぼえる日として礼拝するのがこの戒めの意図である。その時、病気で困っている人がいたら、そして癒やすことができるなら、癒やすことは安息日に戒めを破ることになるのか。そんなことはない。癒やしたあと、共に神を礼拝すればいいのである。病気で苦しんでいる人への憐れみの心がファリサイ派の人たちにはない。
  • ファリサイ派の人々態度は、文字通りに律法を守り、自分は神の前に正しく生きていると自分を誇る態度である。自分を誇る、それを大切にするために、肝心の律法の意味を知ろうとしないでいる。イエスが目の前にいるのに学ぼうとしない。イエスに対して心を閉ざしている。自分のうちにある頑なな態度のために、イエスを受け入れることができない。残念なことである。人は自分を変えることには抵抗を感じる。
  • 人はだれでも「自分」というものを持っている。それがなければ、自分をしっかり保つことはできない。しかしそれは神に対して開かれている必要がある。
  • キリスト教信仰は、聖書つまり神の言葉に対して開かれていなければならない。時に私たちは、それは信じられない、受け入れがたいという思いを抱くことがある。しかしそれはいけないと言って、無理やり聖書、神の言葉を信じなければいけないと自分を追い込むのも、間違いである。結局、信仰はたまものである。信じさせていただくのである。
  • 老いた者としては、終末の事柄、死を超える希望について、確信を持ちたいと願う。心から信じる者としてくださるよう、導きを今日も祈ろう。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>神の戒めに生きている方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>神の戒めはそれが何を意図しているのか知ることが大切である。
  • <勧め>神に対して、神の教えに対して心を開くことが大切。自分の考えにこだわり、神の教えに対して心を閉ざしてはならない。

(神の導き)

☆祈り
  • 今日の聖書を読んでも思います。老いた信仰者として、終末に関する聖書の教えを確信を持って信じて歩みたいと思います。終末の事柄は人間の思いを超えた事柄なので、簡単には信じることができません。聖書は真理を語っていると信じる信仰をもって終末の教えに近づきます。また信仰は賜物であり、それ故祈り求めるものであると受けとめます。そして自分の力で何とか信じようとすることにこだわることはやめにしたいと思います。開かれた自由な心で信じたいと思います。導いてください。
  • 今日は、ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター信仰告白が終末についてどう教えているか読んでみたいと思います。
☆与えられた導き
  • 信仰告白が終末について語っていることを読む。

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