2025年2月11日
(内容)
- キリスト者は、患難、迫害、命の危険や苦しい思いをする場面に直面するが、キリストの愛、神の愛から引き離されることはなく、輝かしい勝利を収めることができる。
(黙想)
- 「しかしこれらすべてにおいて」。これらすべてとは、患難、迫害、飢え、裸、危険、剣でキリスト者が苦しんでいる状況である。パウロは詩編44を引用し、このような危機にキリスト者が直面することは驚きではないことを告げる。その上で、「これらすべてにおいて」、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています、と語る。収めていますという表現は、既に輝かしい勝利の中にいるような書き方である。
- 輝かしい勝利を収めるのは、危機に直面している、その時なのか、そうでないのか。パウロはこれらの危機を乗り越えた。乗り越えたことが輝かしい勝利を収めることなのか。迫害、危険の中にあって殉教したキリスト者もいる。彼らは輝かしい勝利を収めているのか、いないのか。危機に直面し、それを乗り越えた時に勝利を収めるのであれば、殉教した人はどうなるのか。
- 輝かしい勝利を収めるのは、終末の時と考えることもできる。35節で誰もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないと語り、39節ではどんなものもキリスト・イエスにおいて示された神の愛から私たちを引き離すものはないと語る。死も地上の権力者たちも、引き離すことはないと語る。迫害の死は、キリスト者を神から引き離すように見えるが違う。死を越えて、神とキリスト者の結びつきは確かだとパウロは語り、終末の時の神の国の関係において、私たちは輝かしい勝利を収めるとパウロは語るのか。
- 輝かしい勝利は、人間の思いを越えた勝利である。終末の神の支配の完成。その時、死は勝利に飲まれてしまう。
- また18節でパウロはこう書いた。
8:18
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
- 現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べると取るに足りない。将来の栄光、それは輝かしい勝利と理解することができる。キリスト者として今真剣に生きることは、将来の輝かしい勝利につながるのである。この輝かしい勝利を待ち望んで今を生きるのがキリスト者か。
- アブラハムは、子孫が増えるという自分の死後実現する約束を信じた。終末もまた、私の死後に実現することであり、これを信じる。信仰の父であるアブラハムに倣い、信仰に生きていきたい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神の愛から、私たちを引き離すものは何もない。私たちに対する神の愛は、揺るがない。私たちは神に愛されている。
☆神が私たちに求める生き方
- <約束>患難、迫害、その他、あらゆる苦しみの中にあっても、私たちは輝かしい勝利を収めることができる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は、終わりの日の完成を思う時を与えられました。信仰はこの世の生活の満足のためにだけあるのではないこと、信仰に生きるとは神の子として、あなたを信じる者として、あなたの愛に応えて生きることと受けとめます。私の場合は、福音を宣べ伝える者としての使命に生きることが、あなたから与えられた私の役割です。今は老いて、牧師の働きから退いています。
- 今は、老いを生きることが課題です。仕事から離れ、すべきことがなくなり、何をするのか分からない状態に置かれています。私の場合は聖書を学ぶという課題があり、これは楽しい課題です。老いを生きるとは、死を覚えて生きることであり、それは楽しいものではなく、時に憂うつな思いになることもあります。ある意味で重荷です。重荷を負って苦しんでいる人は、私のもとに来なさいと言ってくれる方がおられるので、私の救い主イエス・キリストのもとに身を寄せたいと思います。そして終わりの日の到来を待ち望む信仰に歩みたいと思います。パウロが語る輝かしい勝利を収める喜び、希望が待っていると約束されています。この勝利にもっと思いを向けたいと思いました。この勝利を語る37節を暗記したいと思います。
☆与えられた導き
- 重荷を持って主イエスのもとへ行く
- 37節を暗記する。