2025年2月18日
(内容)
- 汚れた霊が追い出されても、汚れた霊は仲間を連れて戻ってくる。前よりひどい状態になる。
(黙想)
- 汚れた霊が、人から出ていき、砂漠をうろついた。休む場所がなく、「出てきたわが家に戻ろう」と言い、自分より悪い、七つの霊を引き連れて住み着く。その人の状態は前より悪くなる。
- この時代の者たちもそのようになるとイエスは語る。汚れた霊の比喩は、どういうことか。汚れた霊が出ていったなら、何らかの対応をしておかないと、戻ってくると住み込んでしまう。空き家にしておいてはならない。
- この時代の者たちとイエスの関係が考えられていることは確かである。イエスがメシアとして到来した。このイエスを受け入れなかったらどうなるのか。イエスを拒んだらどうなるのか。以前よりは悪い状態になると言うことか。以前はメシアを待望していた。今は、イエスを拒み、メシアを失ってしまった。いくらメシアを待ち望んでもメシアは来ない。この段落の前の「木とその実」「人々はしるしを欲しがる」では、神の裁きについての言及がある。救いを受ける者から裁きを受ける者になってしまうということか。
- 次の段落では、「わたしの父の御心を行う者がわたしの兄弟、姉妹、母である」とイエスは語られた。
- イエスの父の御心を行うのは、私たち人間である。
- 12章では、メシアを信じる者と信じない者の対比も語られている。僕は勿論、信じる者でありたい。
- 人々はイエスと出会った。イエスの行動、語る言葉を聞いた。そして人々はイエスを拒むか、信じるか、問われた。イエスを信じた弟子たちでさえ、イエスが捕らえられた時、イエスを見捨てた。私たちは自分の力、努力でイエスを信じることはできないのだ。躓きの石に躓いてしまう。信仰は神の賜物であり、神の憐れみのおかげであることを忘れてはならない。
- 信じる者でありたい。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>信じる者であれ
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日は聖書を読み、信じる者でありたいと思いました。聖書には大切なことが色々書かれており、すべてを信じることができるとは限りません。信仰の成長とと共に信じることができるようになる事柄もあります。特に終末の事柄は、若い時は信じられなくても、信仰生活に支障はないように思われます。実際私は若い時は、終末の事柄については、表面的に信じるだけで、我がこととして信じることはなかったと思います。しかし老いた今、我がことと信じることを課題とするようになりました。これを信じないで、来世だけを信じるなら、キリスト教の信徒になる必要はありません。終末を信じるから、それを我がこととして信じることができるから、キリスト者です。
- 今、神学書で終末の事柄を学んでいますが、今日も学びたいと思います。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 終末の事柄について神学書を読む。