ローマ 9章30~33節 傲慢な人間

2025年6月6日

(内容)

  • ユダヤ人たちは、自分の行いによって義を得ようとした。これは人間としては、自然な振る舞いである。それゆえ、彼らはつまずいた。

(黙想)

  • 「ではどういうことになるのか」。イスラエルの民はイエスを拒んだ。血縁関係によるイスラエルの民は、神に選ばれた神の民ではない。だからイエスを拒んだ。しかし今もなお、神に選ばれた神の民はいる。そして「ではどういうことになるのか」。
  • イスラエルの民はなぜ、イエスを拒んだのかに言及する。彼らは義を追い求めたが、それは信仰による義ではなく、自分が律法を実践して得る義、自分の行いによって得る義であった。
  • 自分の行いによって義を得ようとすることは、つまずきの石につまずいたのだとパウロは語る。人間の理性からすれば、行いによって義を得るという考えは自然である。しかし人間の理性は、信じれば義とされるという考えには、疑問を抱く。自分にとって自然な考え、行いによって義を得ることは、神による救いを得る道からそれることになる。つまづくのである。
  • ファリサイ派の人たちは、律法を守ることによって義を得ると考え、その努力をした。パウロ自身もその努力をした。イエスと出会い、パウロは自分の考えが間違いであったと知らされた。
  • ロマ書には書かれていないが歴史的な背景がある。旧約聖書にはイスラエルの歴史が書かれている。彼らは神の民となったが、律法を守らず、結局、イスラエルの国は滅びた。外国の支配を受けるようになった。BC2世紀、ファリサイ派と呼ばれる人々が現れた。祖国が滅びたのは律法を守らなかったからと考え、律法を熱心に守ろうとするのである。イエスの時代にもファリサイ派の人たちはいた。彼らはイエスを拒んだ。そしてイエスを死に追いやった。
  • 神のよる救いは、信仰によって義とされる道。人間が素直に受け入れることができるものではないので、人はつまづく。信仰によって義とされる道、神が用意された救いの道は、すばらしいものであると思う。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>自分の行いによって義を得ようとしてはならない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、人間は自分の行いによって義を得ようとします。得られない時は、自分を罪深い者だと言います。自分の行いにより義を誇るのも、自分を罪深い者と告白するのも、傲慢から出たものであると思います。あなたが与えてくださる救いは、恵みの救いです。信仰によって与えられる義、うれしいです。
  • 自分の行いによって義を得ようとするのは、人間としてある意味自然な行為であり、人はつまずいてしまうことを知ります。教えを守ることができない自分を罪深いと告白するのは、裏返せば、自分の行いで義を得ようとする行為ですね。
  • あらためて信仰義認の教えの奥深さを知る思いがします。カルヴァンのキリスト教綱要で「信仰による義」を語っている部分を読んでみたいと思いました。信仰の先達から学ぶことができることを願います。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
  • キリスト教綱要を読む

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