2025年9月9日
(内容)
- 弟子たちがイエスに祈ることを教えて欲しいと願い、それに応えてイエスは、主の祈りを教えた。
(黙想)
- 御名が崇められますように。「御名が聖とされますように」と訳すことが多くなった。神の御名はもともと聖である。神を信じる者が神の名を汚すことがある。だから、信仰者が、神の名を汚すことなく、神が聖なる方であることを証しするようにとの祈りである。キリスト者は、聖なる者とされている。信仰を持たない者たちと区別され、神により聖別され、聖なる者とされている。あるいは神の子とされている。それ故、聖なる者として、神の子として生きることによって、神が聖なる方であることを現す。神の御名を聖とする。
- 御国が来ますように。御国とは神の御支配の意味である。終末の到来と共に神の御支配が完成する。今は神の御支配は、誰の目にも明かというわけではない。キリスト者は神のご支配を信じ、神に信頼して歩み、また神の御心に従って生きる。罪に誘う、悪しき力に対して、御霊の助けを得て戦う。神の御支配のあることをキリスト者は証しをする。
- 必要な糧を毎日与えて下さい。糧とは、単に食物を意味するのではなく、私たちが日々の生活で必要とするものすべてを指す。神は私たちの生活を支えてくくださる。私たちを顧みてくださる神の憐れみ、慈しみに信頼して、必要なものを神に求める。必要な物が与えられるのを私たちはただ待っていればよいのか。違う。食べ物を得るためには働く。これは必要なことである。私たちが働くから食物を得るのであり、生活に必要なものを得るとすれば、私たちが自分を支えるのか。それは違う。私たちが働くことができるように神は支えたもう。
- 罪の赦しについて。これは、私たちの罪の赦しが、他者を赦すことによって与えられると教えているのではない。私たちの罪の赦しは、キリストの贖いを信じることによって与えられる。ここでは、贖いを受け、赦しを得たものは、自分に負い目のある人を赦すことができるようにとの祈りである。他者を赦してこそ、キリストの贖いによる罪の赦しを信じていること、感謝していることが明らかになる。そのような私たちだから、罪を犯しても、神に赦しを求めることが出来る。他者を赦さない者は、キリストの贖いによる赦しを信じていないのである。
- 誘惑に遭わせないようにとの祈り。残念ながら、この世に生きる時に誘惑に遭う。うっかりすれば、誘惑に負けてしまう私たち。だから誘惑に遭わせないでと祈る。誘惑には背を向けて相手にしなければ避けられるのもあるし、私たちの心を刺すかのように迫ってくる誘惑もある。誘惑に遭うことは試練であり、遭わないことが望ましい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>私たちの必要を満たす方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>日毎の糧を毎日求めること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もディボーションでき感謝です。
- 主の祈りから、日毎の糧を毎日与えてくださいとの祈りに目を留めました。あなたは私の必要に目を留めてくださり、必要を満たしてくださると教えられます。今、私は老いの中にあり、この後のことについて、不安があります。夫婦二人の生活をしていますが、これからどうなるのか、予測はできません。でもあなたは必要を満たしてくださる方ですから、あなたに信頼する思いでいます。しかし不安があるのも事実で、どうしたらよいのかと戸惑いの中にあります。
- 自分の思いをすべてあなたに打ち明けて、あなたの導きを待ちたいと思います。イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
- 自分の思い、不安を打ち明ける祈りをする。