2020年10月9日
(内容)
- 主の祈りを祈り、「御国が来ますように」と祈ることをイエスは教えられた。
(黙想)
- イエスが教えた主の祈り。これを毎日祈るとするなら、私たちは御国の到来を毎日祈り求めることになる。そしてこの祈りを祈ることをイエスは教えた。御国は待望すべきものと教えられる。
- イエスは宣教開始にあたり、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語られた。ここでは「御国が来ますように」。原語では「あなたの国が来ますように」。私たちは神さまに向かって「あなたの国が来ますように」と祈るように教えられる。そして祈る。なぜ祈るのか。
- 神の国がいつか来ることを願う祈りと今の私の人生はどうつながっているのか。神の国の到来こそ、キリスト者人生の大目的というべきなのではないか。死んだ後は神の国に迎えられるから安心してこの世の歩みをするというのは、イエスの教えとは違うかも知れない。
- イエスは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り宣教を始められた。天の国は、この世界に突入してきたといってよい。この地上に生きる私たちは、天の国、御国のことなど考えて生きてはいない。だからイエスは悔い改めよと語られた。この地上に生きる私たちと神の国は密接な関係がある。それ故、神の国の到来はキリスト者人生の大目的といえる。神の国に迎えられることが人生の大いなる最終目的である。
- 神の国を意識して生きることがキリスト者の歩みであり、キリスト者の人生の質を高めることになる。キリスト者とそうでない人との違いがここにおいてはっきりと現れる。
- 神の国を意識するとはどういうことだろうか。神の国とは神の御支配と言われる。神の国が到来するとき、神の御支配が完全な形で現れる。これはすばらしい出来事である。言葉では言い尽くせないスペクタクル(壮大な光景)である。キリスト者は、目には見えないが、この地上において神の御支配があると信じる。言うまでもなく、神はこの世界を上から傍観者的に見ているのではない。神はこの世界を造られた。そこには神の目的がある。この目的の完成が神の国の到来である。神の目的は何か。この目的に関わって生きるから、御国の到来が待ち遠しいこととなり、「御国が来ますように」と祈る。
- 神は何のために世界を造られたのか。これを確認することは大切である。自分の頭にそれなりの答えはあるが、聖書に照らして今一度考え直したいと思う。そして自分が真に御国の到来を待ち望む者になれたらと思う。
- 私たちが生きているこの世界の現実は、神が願っているものと一致しているとは思えない。神の国を考えることは、現実を変えることにつながる。神の目的に添う歩みをしなければ、この世界の現実は、変わらない。つまりこの世を罪が支配し、弱者が苦しむ世界の現実は変わらない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>御国が来ますようにと祈ることを教える方
☆神が私たちに求める生き方
- <命令>御国が来ますようにと祈ること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父よ、主イエスがなぜ、「御国が来ますように」と祈るように教えられたのか思いめぐらしました。私たちが神さまとの交わりに生き、神様のご支配の中を歩むようにとの主イエスの教えだと思います。また神さまが作られたこの世界の現実を見るように主イエスは教えられたように思います。
- 御国の到来を私たちは待ち望みます。その到来は、この世界を作られたあなたの計画の完成の時ですから、すばらしいものだと思います。それを大いに楽しみにします。それはスペクタクル(壮大な光景)目の前に繰り広げられるのではないかと思います。
- それ故、ただ漠然と御国の到来を待ち望むのではなく、その時何が起きるのかを考えることは大切ですね。御国の到来と無関係な歩みをこの世でするわけにはいきません。その意味で、この世界に対するあなたの目的を聖書から教えられたいと思いました。当面の課題として受けとめます。
☆与えられた導き
- 神の世界創造の目的を聖書から学ぶ。