2021年3月15日
(内容)
- ゲッセマネの園で祈るイエスと眠りに落ち込んだ弟子たちとの対話。
(黙想)
- ゲッセマネの園についたイエスは、ペトロとゼペタイの子二人を連れて祈る場所に行った。イエスは三人に「ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」と命じた。そしてそこから少し離れた場所で祈られた。
- イエスが祈った言葉が記録されているということは、三人の弟子たちがイエスの祈りを聞いたことになる。どの程度聞き取ったのかは分からないが、イエスが何を祈ったのか聞いていたことが分かる。しかしそのうちに弟子たちは眠ってしまった。夜の何時頃かは分からないが、ふだんなら寝る時間を過ぎているかも知れない。一日の疲れで寝てしまったのかも知れない。しかしイエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」とお命じになっている。しかし弟子たちは眠ってしまった。
- イエスは弟子たちに「一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」と問いかけた。ゲッセマネの園に月明かりがあったのかどうか分からない。ただ月明かりがなければ真っ暗である。おそらく月明かりはあったのだろう。11人いた弟子たちの内、三人の弟子を伴ってイエスは祈る場所に行かれた。ある意味三人は選ばれたのである。このことが三人の弟子たちの心に何か影響を与えたのかどうか。選ばれたという意識があれば、少しは緊張感をもって「ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」との命令を受けとめたかも知れない。結果的に彼らは眠ってしまった。一日の疲れのために寝てしまったと思われる。
- するとイエスは今度は「誘惑に陥らぬよう目を覚ましていなさい」と言われた。最初は「わたしと共に目を覚ましていなさい」。これができなかった弟子たちに「誘惑に陥らぬよう目を覚ましていなさい」とイエスは命じた。弟子たちは誘惑に陥り、イエスと共に目を覚ましていることができなかった。イエスは三度祈り、祈り終わって戻ると弟子たちは眠っていた。イエスの注意は役に立たなかった。
- 三人の弟子たちは、イエスの祈りを聞いた。どの程度聞こえたのかは分からない。イエスが祈っている、だから自分たちも祈ろうとしたが、眠気に負けてしまった。眠気という誘惑に負けてしまった。「心は燃えても肉体は弱い」。我々には弱さがある。これは否定できない事実。しかし弱さに支配されていいというわけではない。眠気は誘惑とすれば誘惑に負けていいわけはない。
- 弟子たちが「わたしと共に」「誘惑に陥らないように」と言われても目を覚ましていることができなかったことを聖書は語る。私たちの弱さを指摘している。「わたしと共に目を覚ましていなさい」という言葉が印象に残る。この「わたしと共に目を覚ましていなさい」は、私たちにも当てはまる。私たちは日々どのような生活を送っているのか。イエスと共に目を覚ますような生き方をしているのか。弟子たちのように眠ってしまう生き方をしていないか。キリストの証人として生きることを忘れるなら、私たちは眠ってしまった弟子たちと同じかも知れない。
- 眠りこけた弟子たちをイエスは非難するが拒んではいない。彼らの弱さを受け入れ、弟子たちと関わっている。
- イエスはなぜ、3人の弟子たちを連れ、祈る場所に行き、目を覚ましていなさいと命じたのか。イエスは葛藤の祈りをする。十字架の上で神の裁きを受けることへの恐れ、十字架へのためらい、悲しみもだえたとある。なぜイエスは弟子たちの祈りを必要とされたのか。弟子たちはイエスが葛藤しながら祈っていることは理解できたのではないか。イエスの祈りの言葉が記録されているのだから。弟子たちはそれなのに眠ってしまった。
- イエスが弟子たちの祈りを必要としたことは何を意味しているのか。別の箇所では、イエスはひとり深夜祈っていたとあり(ルカ6:12)、早朝に祈っていたとかある(マルコ1:35)。弟子たちを伴わずにひとりで祈られたこともある。しかしこの時は、特別だった。悲しみのあまり死ぬほどの思いで祈るのだから。
- ヘブル書に「この大祭司は、わあ氏たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に、試練に遭われたのです」(4:15)。
- イエスもこの時、試練の中にあった。試練の中にあって人は祈りの支援を必要とするのかも知れない。しかし弟子たちは眠り、支援はなかったことになる。でもイエスは祈り続けた。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- (御子)試練の中で弟子たちの祈りの支援を必要とされた方。
- (御子)弱さを持つ弟子たちを受け入れるお方
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)イエスと共に目を覚ましていること
- (警告)誘惑を警戒すること。心は燃えていても肉体は弱い。
- (教え)私たちは弱さを持つ。弱さの克服はイエスの復活を待たなければならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ゲッセマネの園でのイエス様のお姿に目を留めます。ご自身は十字架の死を前にして神さまの裁きを受けることを予想しています。それが具体的にどういうことなのかはいまだ分からず、イエス様の心は悲しみもだえています。イエスは弟子たちに目を覚ましていなさい、目を覚まして祈っていなさいとお命じになりました。
- この「目を覚ましていなさい」は私たちにも向けられた言葉と受けとめました。私たちはキリストの証人として歩む使命を与えられています。眠ってしまってこの使命を忘れてはなりませんね。この世の生活に没頭してこの使命を忘れてはなりませんね。
- わたしにとってブログを書くことは、キリストの証人として生きることです。力強く、証しをすることができるようにあなたの導きを祈るのみです。いつも祈っていますが、さらに導いてくださるようにお願いします。一つの課題として夕食前にブログを書き終えるようにしたいと思います。そのためには翌日に何を書くのかを決めておくようにしたいと思います。
☆与えられた導き
- キリストの証人としてブログを書き続けることができるように導きを祈り続ける。
- 前日に翌日のブログのテーマを決めておく