マタイ福音書 26章47~56節 聖書の言葉は実現する

2021年3月17日

(内容)

  • イエスが捕らえられる場面。弟子の一人が剣を振って大祭司の手下に斬りかかった。しかしイエスは捕らえられ、弟子たちはイエスを見捨てて逃げた。

(黙想)

  • 弟子の一人が大祭司の手下に剣で斬りかかり、片方の耳を切り落としたというのは驚く。弟子たちはいつ剣を準備したのだろうか。ルカ福音書では、剣を持つようにとイエスは指示している。マタイにはそのことは書かれていない。弟子たちは勇敢にも剣でもってイエス逮捕に抵抗したことを強調しているのか。それは弟子たちがイエスを見捨てて逃げたことと対照をなしている。人間は威勢のいい自分の姿を見せることはできるが、結局イエスを見捨ててしまう弱さを持っている。人は自分を強く見せようとしても、それは結局見せかけであり、人は弱い存在である。弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまったと最後に書かれており、イエスの語ったとおりになった。
  • あるいはイエスの「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との印象的な言葉を伝えたかったのか。現代ではどの国も軍備を整え、互いに威嚇して争いを起こさずに平和を保とうとしている。北朝鮮の核兵器、中国の軍備の増強など、国家の威信を高めようとしている。それは平和にはつながらないと聖書は告げる。イエスのこの言葉は大切な言葉と知る。
  • イエスは抵抗しない。イエスは聖書の言葉が実現すると二度(54,56節)語っている。この場合の聖書は、私たちが持っている聖書の旧約聖書をさしている。受難の出来事はあらかじめ、旧約聖書に書かれているというのである。すでに31節でイエス様は聖書を引用し、「私は羊飼いを撃つ。すると、羊の群れは散ってしまう」とのゼカリヤ書の言葉を引用している。
  • イエスは旧約聖書のどの箇所を思ってこのようなことを語ったのか。イエスはご自分の十字架での死が神の計画として聖書に予告されていると理解していたことになる。十字架上での叫び、「わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」は詩編22編にある言葉である。
  • イエスは十字架の死が神の計画であることを知っている。同時にその神の計画が聖書に預言されていると理解している。聖書に書いてあるとおりにイエスは苦しみを受け、十字架で死に、復活するのである。聖書は未来を予告する文書ではないが、神の救いの歴史が書かれており、その視点は終末にまで及んでいる。イエスご自身が終末に言及されたことが聖書に記録されている。そこでイエスがしたように、私たちは聖書に書いてあるとおり、終末の事柄が現実になることを信じることができる。それがイエスを信じるということになる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>旧約聖書に示された神の救いの計画の中に自分をおき、十字架への道を神の御心として歩む。「聖書に書いてあるとおり」という言葉が印象に残る。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>私たちは弱い存在である。特に恐れに対しては弱い存在である。強がるのは空しいことである。
  • <教え>剣を取る者は剣で滅びる。力の行使は、争いの解決にはならない。
  • <模範>聖書に書いてあるとおりとイエスは語り、聖書に示された神の計画に従順に歩むイエス様の姿は模範となる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。弟子たちは自分の弱さのゆえにイエス様を見捨てて逃げてしまいました。人間は自分の弱さを認めたくなく、強がる存在であることをあらためて思います。私自身もかつてはそうでしたが、自分の弱さを認めることができるようになりかえって自由にされたことを思います。感謝です。私たちは主にあって強いのですね。
  • イエス様が「聖書に書いてあるとおり」と二度も語られたことが印象に残ります。イエス様は神さまのご計画の中に身をおき、神さまのご計画を担っています。十字架の死という救いの出来事に仕え、自分の命を犠牲にされます。
  • 私たちの生涯もまた神さまのご計画の中にあると信じます。特に終末の時が到来し、神さまの救いの計画が完成することを思います。私たちが終末の出来事を真理として信じることができる一つの理由として、イエス様があなたのご計画に身を殉じて歩まれたことがあると考えます。イエス様に倣い、あなたのご計画の感性を信じ、終末の事柄を信じ、あなたの御国に迎えられることを喜びとします。このことをブログに書き、証しとしたいと思います。
☆与えられ得た導き
  • 終末のことを信じる理由について書く

 

 

 

 

 

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