マタイ福音書4章23~25節 福音宣教

2023年6月7日

(内容)

  • イエスのガリラヤでの活動が要約した形で語られる。力あるわざと権威ある教えを行い、大勢の人々がイエスのもとに集まってきた。

(黙想)

  • マタイは、イエスの活動を具体的に書くのに先立ち、ガリラヤでの活動を要約する。
  • 諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えたとある。御国の福音とは、神の御支配があること、その御支配の中を生きるようにとの招きである。そして神の御支配のしるしとして、病人のいやし、悪霊の追い出しが行われた。また諸会堂で教えられた。それは神の御支配の中に生きる者たちへの教えである。
  • 大勢の群衆が、イエスのもとに集まったとある。イエスの活動は多くの人に知れ渡り、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の人々がイエスに従った。
  • 「従った」とあるのは、文字通りイエスについて歩き、イエスの活動を目にしたとの意味だろう。弟子としてイエスに従うという意味ではないと思う。イエスの活動に注目し、もっと見たいとの思いでついて行ったのではないか。自分や家族の病気のいやしを求めた人も多くいたと思われる。
  • 9章の35節にもイエスの活動を要約した言葉がある。

    9:35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

  • しかしこの箇所では、次のような言葉が続く。

9:36
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

  • 人間は病気が癒やされ、悪霊が追い出されればそれでよいというものではないことが分かる。人は何のために生きるのかが、明確になっていないと表面的な生活には問題がないとしても、弱り果て、打ちひしがれることがある。霊的な貧しさをもつ人間をイエスは憐れまれる。
  • この箇所では、イエスの評判が広まり、大勢の人がイエスのもとに集まりイエスに従ったと書かれている。9章35節では、イエスのもとに集う人々が飼い主のいない羊のようであると描写されている。
  • 現代でも人は、安定した生活を求め、さらに心が豊かにされる生活を求める。聖書的に言えば、肉の要求を満たそうとしている。飼い主のいない羊が、あちこち走り回り、満足を求めているような状態である。霊的な渇きを覚える人は少ないのか。
  • 現代は、一方で肉の要求を満たすさまざまなものがある。人間の欲望を満たすものが色々ある。命がけで生きることはなく、人生を豊かにすることを人々は考え追求する。
  • 現代では信仰に価値がおかれない。信仰を持たないで生きることに自負を覚える人が多いのではないか。
  • イエスは人々の求めに応じ神の御力をあらわし、神の御支配の中に生きるよう人々を招かれる。しかし病気が癒やされればイエスのもとを去った人も少なくないと思われる。イエスは十字架を目指す。人間の救いは罪からの救いであり、この救いを人は必要としている。それは現代も変わらない。
  • 罪からの救いをいかに説教していくか、大切な課題である。罪とは神を信じないことであり、そこから罪が具体的な行為となって現れていく。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは人々の病を癒やし、悪霊を追い出し、人々を苦しみから救った。そして神のご支配の中に生きるよう招かれた。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、主イエスは十字架を目指す地上の生涯を送られています。福音を宣べ伝える者として召され、その働きを行ってきた者として、福音が今もなお広く宣べ伝えられることを願います。現代は、伝道が困難な時代です。それでも福音を必要としている人はいます。福音を宣べ伝える教会の働きを導いてくださるようにお願いします。
  • 無牧の教会で説教の奉仕があります。「わたしは福音を恥としない」とのロマ書の1章16~17節をテキストに説教するつもりです。福音は、救いに導く神の力とあります。救いは言うまでもなく、罪からの救いです。説教の準備を導いてくださるように切に願います。
☆与えられた導き
  • 説教の準備への導きを祈る。

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