2023年10月17日
(内容)
- イエスは復讐をせず、相手のなすがままにするように教える。
(黙想)
- 「目には目を、歯には歯を」と意味は、人は復讐する時、相手にされたことよりもさらに上回る仕返しをする。それによって、憂さを晴らすことができるからである。聖書は、相手からされた程度に復讐は抑えるように教える。
- これに対して「私は言っておく」と前置きを言い、まず、悪人に手向かうなと言う。だれかが自分の右の頬を打つなら、左の頬を向けなさいと教える。右の頬を打たれたのなら、やり返すか、逃げるか、二つの反応が考えられる。前者なら殴り合いになる。後者なら、屈辱感が残る。
- イエスは、思いがけないことを語る。右の頬を打たれたのなら、左の頬を向けなさいと言う。どういうことか。相手は一瞬戸惑うのではないか。左の頬をさし出すなんて想像できない反応である。以下、下着を取ろうとする者に上着を与える、1ミリオン行くように強いるなら、2ミリオン行きなさい。いずれも相手は戸惑うにちがいない。なぜそんなことをするのかと。
- この世では、やられたらやり返す、これが当然のこととして行われている。左の頬を出すなんて、相手からなめられてしまうのではないかとの心配はある。なめられてますますひどい目に遭う。
- イエスは、相手が悪人である、悪人には手向かうなと教える。手向かえば、結果的に悪人と同じになってしまう。
- 使徒パウロはロマ書12節で、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさいと教える。さらに「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
- 悪に対して善で勝つように教えている。悪に対してやり返して相手と同じことをするのではなく、善で勝つように振る舞うことを教えている。
- 右の頬を打たれて左の頬をさし出す時、相手はどう思うのか。鬱憤を晴らすべく、左の頬を相手は打つかも知れない。あるいは、左の頬は打つ理由がないので、打たない。そして右の頬を打ったことの反省に導くという可能性はある。自分のしたことへの反省を促すのである。
- 相手からひどいことをされて自分の人間としての尊厳を傷つけられたとして反撃するなら、行為としてみれば相手と同じ立場に立つことになる。自分のプライドを保つことを名目とする行為は、自分の品格を低める行為につながる可能性がある。
- 善をもって悪に勝つことをイエスも教えているのではないか。
- この段落の最後は、求める者に与え、借りようとするものに背を向けるなとの教えは、相手に対して親切にすることを教えている。愛の行為である。
- 自分に対してひどいことをする人にどう対応するのか。「目には目を」的な対応はよくない。左の頬をさし出すことは、相手に自分のした行為について考えさせる機会を与えることになるのではないか。復讐は神に任せ、キリスト者として親切な行動を取ることをイエスは教えているのではないか。
- 親切な行為が理解されるとは限らない。左の頬を打たれるかも知れない。でも善をもって悪に勝つ行動が求められる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>復讐はしない。
- <勧め>善をもって悪に勝つことを大切にする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今この世界で問題になっているのは、イスラエルの軍のガザ侵攻がいつ行われるかです。ハマスがイスラエルに攻撃し、イスラエルはそれに対して反撃をしようとしています。多くの市民が双方に犠牲になっています。「目には目を歯には歯を」と聖書で教えられていますが、やられた以上に仕返しをすることが行われています。
- 自分を第一にして他者と平和的に共存する道をイスラエルもハマスも選ぼうとしません。自己中心の人間の罪を思います。その罪が市民の犠牲を生み出しています。主イエスの教えの正しさを思います。
- 一日も早い、紛争の解決を祈ります。人間の愚かさを憐れんでください。罪のゆえの犠牲者が増えないように、極力抑えられるように祈ります。指導者たちの心に、「平和を求めるように」とささやいてください。イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
- 紛争のために祈る。