マタイ福音書 7章1~6節 相手を見極める

2024年6月7日

(内容)

  • 聖なるものを犬に与えず、真珠を豚に投げない。

(黙想)

  • 新共同訳聖書は、聖書本文を段落に分け、段落にタイトルをつけている。この6節は1~5節と同じ段落に入れている。つまり1~5節と結びつけて解釈することになる。
  • 聖書にはもともと段落ごとのタイトルはなく、6節を1~5節と分けて解釈することもできる。そのような解釈の中には、聖なるものを福音と理解し、福音を宣べ伝える時、6節は聞く人たちの反応を示していると解釈する。嘲笑って聞こうとしない者たちもいるし、逆に反発して攻撃してくる者もいる。福音は受け取ろうとしない人に語っても無駄である。そのことを知ることも大切と理解する。
  • 福音宣教について語っていると理解するのは、文脈にそぐわないような気がするので、6節を1~5節の続きとして理解することにする。4節で兄弟に向かって忠告することが語られているので、忠告しても、無視する人もいれば、反発して逆にこちらに攻撃してくる人もいると理解する。相手を見て忠告することが大切だと教えていると理解する。
  • 3~5節では、私たちが他者に忠告をする時、偽善者になる可能性を警告している。自分の丸太に気づくことを勧めている。
  • 教会の中には偽預言者がいる可能性があるとパウロは語った。相手をよく観察することは大切である。裁いてはいけないからと言って、相手を観察することを忘れてはならない。偽預言者なら対応する必要がある。相手を観察し、相手を見極めることは大切である。そこで忠告するかどうかは、相手をよく見ることが必要である。勿論、忠告する場合、自分の丸太は取り除いておかなければならない。丸太を放置すれば、相手はこちらの丸太に対して、批判してくるかも知れない。
  • キリスト者として、相手がどのような人かを観察することは大切である。忠告は簡単にしてはならない。自分の丸太を取り、よく見えるようにならなければ忠告はできない。
  • 6節は、相手を見極めることの大切さを教えていると理解する。相手を裁かないとは、相手がどんな人か考えないということではない。相手を見極めなければ、今日ではオレオレ詐欺に簡単に引っかかる可能性がある。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>私たちの周囲にいる人たちを裁くことはしないが、その人たちがどんな人なのか、きちんと観察し、見極めることは大切である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書の思いを向けることができ感謝です。目を世界に向ける時、さまざまな対立があり、相互に非難し合っている状況があります。ウクライナとロシア、ハマスとイスラエル、中国とアメリカ。相互に批判し合い、分断がいよいよ深くなっていきます。どちらも自分が正しい立場に立っていると主張し、和解することは無理な状態です。
  • 人は誰も完璧ではなく、弱さ、破れを持っています。裁かれてもしようがない面があります。だから、人は互いに寛容になり、互いに大切にしあうことが必要ですね。個人同士の場合は、努力が実を結ぶ可能性は大きいですね。
    あらためて自分の丸太を取り、よく見えるようになることの必要を思います。人の振り見てわが身を直せとのことわざは、大切だと思います。また聖書は、自分がいかなる人間であるかを映す鏡です。聖書と他者の生きる姿を見て、自分の丸太に気づきたいと思います。
  • 先日ある本を読んでいて、自分の問題点を知らされた気がしました。この点についてよく考えたいと思います。それは、あなたを本当に神として、あなたに向き合っているのか、という問いです。その本では、詩編104編に言及していたので、この詩編を今日は味わうことにします。
☆与えられた導き
  • 詩編104を味わう。

 

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