ローマ 8章5~13節 神の霊に導かれる者

2024年8月23日

(内容)

 人間は、罪の支配下にあり、死んだとも言える存在だった。洗礼を受け、聖霊を賜物として受け、聖霊によって生きる者となり、さらに罪に打ち勝つ者とされる。

(黙想)

  • 5節で霊によって歩む者と肉に従って歩む者の対比がなされる。「体」という言葉に注目すると

8:10
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

  • 体は罪によって死んでいてもと書かれている。さらに11節。

8:11
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

  • 11節では聖霊は、「死ぬはずの体をも生かす」と書かれている。さらに13節。

8:13
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

  • 霊によって「体の仕業を絶つ」とある。6章12節には次のようにある。

6:12
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

  • 体は欲望を持つ。罪が体を利用し、欲望に生きるように導く。その結果、人は罪を犯す。このようなことが繰り返されれば、人は罪の支配下に生きることになる。体は死んでいると呼ばれてもおかしくない状態となる。
  • しかし霊は、この体を生かしてくださる。体をよい方向に働くように導く(11節)。
  • さらに霊によって体の仕業を絶つ。つまり霊の助けを得て、キリスト者は体の欲望を打ち砕き、これに従わない。つまり体の欲望に勝つとある。
  • 「体」とは何を指すのか。ギリシャ語ではソーマ。肉体を意味するより、人間存在、人間そのものを意味すると言えるように思う。人が罪の支配下に生きているなら、それは死んでいると言うことができる(10節)。しかし聖霊によって生かされる(11節)。そして霊によって「体の仕業を絶つ」とは、体の欲望を退けることを意味する。罪に打ち勝つことを意味する。

6:12
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

  • この聖句が、聖霊によって、実現する。体(人間)は、罪の支配下にあり、死んでいると言える状態であったが、聖霊によって生かされ、霊に従う時、体の仕業を絶つことができ、罪の働きを砕くことができる。
  • ここには罪に打ち勝ち、聖なる者とされていく信仰者の姿がある。このように霊の導きを受ける者は神の子であると11節は語る。
  • パウロはガラテヤ書で、キリスト者は洗礼を受け、キリストに結ばれ、神の子とされたと書く。

ガラテヤ 3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

  • イエス・キリストを信じ、洗礼を受けたものは、神の子とされる。これは神の恵みによる。キリスト者は神の子として生きていく。神の子とされた恵みに応答するのである。キリスト者は聖霊の導きを祈り求め、聖霊に導かれ、罪に打ち勝ち聖なる者とされていく。キリスト者は神の子らしくなっていく。神の子らしくなっていく時、霊の導きを受けていることが分かる。霊の導きによって自分が神の子らしくなっていく、これは素晴らしいことである。自分が神の子であると確信できることは感謝。
  • 罪から人を救う神の働きを思わされる。キリストの働き、聖霊の働き、この救いを計画し導く父なる神。

(神の導き)

☆祈り

 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができて感謝です。このローマの信徒の手紙は、手強いです。パウロは論理的に考え、書いています。その論理について行くことは容易ではありません。信仰的な事柄ですから、聖霊の働きについての理解が必要です。また彼が使う言葉についても理解が必要です。
 でもおよそパウロが伝えたいことは理解できます。理解できる範囲で受けとめたいと思います。今回も「体」の仕業を絶つことに目が行きます。前回のデボーションで、体の仕業について、確かさを求める思いが自分の中にあることを確認しました。それは思い上がりで、素直に信じるようにとの適用を与えられました。今回も同じ思いです。自分は信じる者であり、神さまに信頼し、神さまにゆだねる者でありたいと願います。
 今日も、あなたの導きを祈り求めます。

☆適用
  • 神にゆだねる信仰と神さまに信頼する信仰に生きることを祈り求める。
祈り

天の父なる神、主イエスは十字架の上で死の直前、「私の霊を御手にゆだねます」と祈られました。ヘブル書11章には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。
 信じようとするとき、不安を感じたり、疑いを持ったりすることがあります。それはとても人間らしいと思います。でも、信じるとは、信じる側に立つことでもあると思います。信じる人がいれば、疑う人がいて、どっちが本当かを見極めようとする人がいるとするなら、私は信じる側に立ちます。主イエスよ、私は信仰に立ちます。支えてください。励ましてください。

 

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