2024年4月26日
(内容)
- 誰も二人の主人に仕えることはできない。神と富、この二人の主人のどちらに仕えて生きるのか。
(黙想)
- イエスは、どちらを主人にすべきかは語らない。神に仕えるのは当然だから、言うまでもないということか。聞き手に、あなたはどちらを選ぶかと考えさせている。命じるとは、聞き手に選択の余地を与えないことである。教える者と聞き手に、主従関係をつくることにもなる。私は教える人、あなたは従うべき人。
- しかしイエスは選択を聞き手にゆだねる。自分はどうするか、聞き手にゆだねている。こうすれば律法主義に陥ることはない。とは言え、どちらを選ぶべきかは明らかである。もっと深いところから聞き手が神に仕えることを選ぶように導けたらよいと思う。
- 19~23節はその意味で、いかに生きるかを聞き手に考えさせている。あなたの心は何を喜びとし、それを追求しているのかを問いかける。問いかけにどう答えるかで、どちらに仕えるかは、自ずと決まってくる。
- 地上の富は、地上にいる間だけ価値を持つ。永遠を考えるなら価値はない。地上にいる間でも、その価値は不安定である。冨は失う可能性があるし、名誉は時に失うこともあるし、自己実現はできるとは限らない。地上の富の価値は過ぎ去る。
- 目が澄んでいるなら、どちらを選ぶか、どちらに仕えるかは明らかとなる。キリスト者は、神を主人とし、神に仕えることを選ぶ。
- 時に神に仕えているつもりで、実際には自己実現を目指していることもある。自分が本当に神に仕えているのか、仕えているつもりだけなのか、この違いはどう理解したらよいのか。自己吟味が必要となる。ファリサイ派、律法学者たちは、神に仕えているようだが、実は自分の信仰が賞賛されることを求めていた。イエスからは偽善者と批判された。
- では僕はどうなのか。イエスは「愛する」という言葉を使っている。神を愛するか、富を愛するのか。基本的に人間は富を愛している。信仰というのは何よりも神を愛することである。律法の中で一番大事な戒めは神を愛することである。自分は神を愛しているのか否か、問いかけられる。
- 僕は神を愛していると思う。こうやってデボーションをし、神の御心を探り求めて生きようとしているから。それが完璧であるとは言えない。ただ努力していることは確かである。神を愛した上で、神に仕えることである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>信仰者が仕えるべきお方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>富ではなく、神を愛し、神に仕えること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- あなたを愛し、あなたに仕えているのかを問われました。あなたを愛していますが、あなたに十分仕えているか否か、どうなのでしょうか。そして思うことは十分祈っているのか、です。祈るべきことを祈っているのか、です。戦争が起こり、傲慢な指導者は人の命を軽んじ、命、生活を奪われていく人たちが沢山います。
- あなたを愛さない者は、平和を愛しません。それゆえ、福音が今一度世界中に宣べ伝えられなければならないことを思います。しかも福音が福音として宣べ伝えられることです。戦争を覚え、福音宣教を覚え、祈りのカードを修正、追加したいと思います。そして祈ります。
☆与えられた導き
- 祈りのカードを修正、追加して祈る。