マタイ福音書9章14~17節 新しいぶどう酒は新しい革袋に

2024年8月19日

(内容)

  • 新しいぶどう酒は新しい革袋にと主イエスは教えられた。主イエスがもたらす救い、それは人間の思いを越えたものである。謙遜に受け入れることが大切である。

(黙想)

  • 断食をめぐるイエスとヨハネの弟子たちの問答。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は断食をするのに、イエスの弟子たちは断食していない。これはなぜか、とヨハネの弟子たちは、イエスに問う。
  • 断食は悲しみに出会った時などに行われてきたが、イエスの時代は、宗教上の敬虔な儀式、行動として行われていた。イエスは花婿がいる時は、婚礼の客は、悲しむことができない。つまり断食はできない。しかし花婿が奪い取られる時が来たら、その時は断食をすると答えた。花婿が奪い取られる事態とはどのようなものなのか。理解しにくい。
  • イエスはご自身が花婿として世に来られたと考えていること、そして花婿が取られることを予測している。つまりご自分の死を想定していることが分かる。
  • イエスは今はメシアとして活動しているから、断食は必要がない。しかしイエスが死ぬなら、弟子たちは悲しみ断食をしてもいい。
  • イエスは、宗教的な敬虔な行為としての断食は否定しているように見える。そしてご自身の死を想定している。イエスは新たな事態を引き起こそうとしていることが分かる。
  • 神を信じる生活というものが、これまでのあり方と全く違うものになることが推測される。そのことは、16節以下の織りたての布から布きれをとって古い服に継ぎ当てをしないとか、古い革袋に新しいぶどう酒を入れないというたとえで示している。
  • イエスによって信仰に関して新しい事態がもたらされることが教えられる。信仰生活とは、ファリサイ派や律法学者のように、神の律法を守る生活ではない。山上の説教で示されるような生き方をすることである。でもそれは、父なる神との交わりの中で可能とされる歩みである。
  • イエスは、異質なメッセージを携えてきた。その典型がイエスの十字架の死である。メシアが殺されて死ぬなんて、人間の常識から言えばありえない。しかしそこに救いのメッセージがある。常識では受けとめることができないメッセージがある。
  • イエスが与える救いは、人間の常識で受け入れることができない異質性がある。パウロが語る信仰による義認もそうだ。人間の常識は、神の律法を守る努力をして神に義と認められることを目指す。律法学者たちの歩みであり、キリスト者になる以前のパウロの歩みである。イエスによる救いは違う。恵みによる救いである。
  • 福音は常識を越える異質さを伴う。このことを理解しておくことが大切だ。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスが与える救いは、人間の常識を越えたものであり、常識で理解できるものではない。常識に生きる人からは理解されない面がある。
  • パウロは、救いとは、信仰によって義とされ、神との間に平和な関係を持つこと。罪の奴隷、罪の支配からの自由、心の清めがある。後者の二つは、あまり信じられていない。常識を越えるから、信じられないのである。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>謙遜に聖書が語ることに耳を傾ける。人間の常識によって判断し、聖書が語ることを受けいれず拒否したりすると大切なことを見落としてしまう。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、あらためて思うことは、福音が狭く理解されていることです。福音とは罪の赦しと理解されている現実があります。何らかの形で福音理解があらたまる必要があります。ルターの宗教改革がそうであったように、何かムーブメントとして福音理解の刷新が始められるといいなと思います。
  • 今の私にできることは祈ること、そして奉仕の機会が与えられたら説教することです。あなたの導きのままに歩みます。9月に説教の機会が与えられているので、福音を語ることができるように祈ります。
☆与えられた導き
  • 福音理解の変化が起きるように祈る。
  • 9月の説教奉仕のために祈る。

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