マタイ福音書9章27~34節 イエスが伝えようとしたもの

2024年9月7日

(内容)

  • イエスは奇跡を行い、人々を癒やし、苦しみから救われた。人々はいやされたことを喜んだが、イエスが伝える福音には無関心なように見える。ファリサイ派の人たちはイエスに対して批判的である。イエスが伝える福音に耳を傾ける人が少ない。

(黙想)

  • ここには二つの奇跡物語がある。イエスが二人の盲人の目を見えるようにする話。もう一つは、イエスが悪霊につかれて口が利けない人から悪霊を追い出すと、その人は物を言い出したとの物語。
  • イエスは目が見えるようになった人に、このことは誰にも話すなと言われたが、二人の人は、イエスのことを言い広めたとある。イエスがなさった御業は、黙ってはいられないほど大きなみわざであった。また悪霊に取りつかれた人から悪霊が追い出され、その人が物を言い始めた時、この出来事を見ていた人たちは、こんなことは見たことがないと驚嘆した。
  • イエスの行われた御業は人々を驚かせるためではない。目の見えない人の目を見えるようにし、悪霊につかれた人から悪霊を追い出すことが目的ではない。このような出来事の背後に、神の国が到来したことを見なければならない。奇跡は人々の注目を集めるが、時間が経てば、人々は忘れる。そういえば、そんなことがあったな、イエスのおかげで癒されてよかったなと思い出となる。
  • イエスは二人の人に、誰にも知らせてはいけないと言った。それは二人の人に、目が見えるようになったことの意味を知って欲しかったからだろう。神の国が到来した。その結果として彼らの目が見えるようになった。神のご支配の中を生きるようにイエスは願っている。このことを忘れれば、目が見えるようになってよかったとの思いが残るだけである。イエスという人はすごい人だったなという思い出が残るだけである。
  • 他方でファリサイ派の人たちはイエスが、悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出していると中傷した。彼らは自分の立場に固執して、イエスによる神の国の到来を認めようとしない。神のみ業に対して心が開かれていない。自分の立場に固執する、それは言い換えると、その立場にいる自分を誇りに思っているということである。誇りある人間は、神に対して心を開くことがむずかしい。
  • イエスを見つめる、それが大切だ。イエスは、彼に「憐れんでください」と言って近づいてきた人の願いに応えられた。盲人の目を開き、悪霊につかれている人から悪霊を追い出した。
  • イエスの働きはなかなか理解されない。ファリサイ派の人たちは反発し、癒やしの恵みを受けた人たちは、癒やしだけを喜ぶ。「神の国は近づいた」ことをイエスは癒やしによって証しをした。でも悔い改めて福音を信じる人は少ない。
  • イエスは中風の人を癒やし、罪を赦す権威を持っていることを示された。イエスは取税人のマタイの家に生き食事を共にした。ファリサイ派の人たちが、なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言われたとき、私は罪人を招くために来たと言われた。
  • イエスは御国の福音を宣べ伝えた(9:35)。御国の福音とはどのようなものなのか。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は、イエスが宣べ伝えた神の国の福音とは何か、と問われたような気がしました。私は今ロマ書を学んでいて、パウロが伝える福音を学んでいます。パウロが伝える福音はイエスが伝える神の国の福音と一致するのか否かと問われるなら、一致していると答えるべきだと思います。表面的には、パウロが語る福音理解は、福音書には書かれていません。
  • あらためてイエスが伝える神の国の福音とは何か、確認したいと思いました。そこで『イエス・キリスト』(荒井献著講談社)のマタイ福音書の部分を読んでみたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
  • 『イエス・キリスト』(荒井献著講談社)を読む。

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