2024年10月14日
(内容)
- 福音を語る者は、人々を恐れてはならない。なぜなら、福音を語る者は、神に大切に覚えられ、たとい何が起きようと神に覚えられているからである。
(黙想)
- 26~31節が一つの段落をなしている。26節で「人々を恐れてはならない」とイエスは語る。26節の後半から27節は、恐れてはならない理由を示していると思うが、必ずしも明確ではない。
- 28節。体を殺しても魂を殺すことのできない者と、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方がいる。恐れてはならないのは、前者である。後者は神であり、恐れるべき方である。
- 29~30節は、雀でさえ、神の許しがなければ地に落ちない。弟子たちは髪の毛までも一本残らず数えられている。弟子たちは神によって深く覚えられている。弟子たちは雀たちよりも大切な存在である。神に覚えられているので、人々を恐れてはならないと教えられる。
- 人々を恐れてはならない理由が二つ語られる。第一の理由は体は殺すけれども魂を殺すことのできない者は恐れる必要がない。恐れるべきは、体も魂も地獄で滅ぼす方である。第二の理由は、父なる神は弟子たちのことを大切に考えているし、弟子たちのことをすべて承知している。だからどんな状態におかれても神の御手の中にいつもあるので人々を恐れる必要はないのである。
- 問題は、26節後半から27節である。26節後半は、明らかに人々を恐れてはいけない理由と語っている。「~からである」と理由を示す文章であることを示している。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない。だから人々を恐れてはならない」と書かれている。わかりにくい。どのように解釈したらよいのか。
- この言葉は、マルコ4:22にも出てくる。言い換えるとこの言葉は、一種の真理を表す言葉で、色んなケースで用いられる言葉でもある。
- 27節では、イエスが弟子たちに暗闇で語ったこと、耳打ちしたことを公に広めよとの内容。イエスは、語るべき言葉をこっそりと弟子たちに伝えるので、それを公に語れと27節で語る。これは人々を恐れないで語れということなのか。
- 26節後半。弟子たちがイエスの弟子であることを隠しても必ず明らかになるということなのか。しかし弟子たちは人々の前で公に語るのが原則である。イエスの弟子であることを隠したら、何の働きもできない。
- ルカ福音書の12章4~7節で、イエスは誰を恐れるか教えようと語る。そこでは、マタイの26節後半と27節はない。26節後半から27節は、理解できない。マタイは、特別な意味を込めているのに、わかりにくい。
- そこで、28~31節を思いめぐらすことにする。
- イエスの弟子は、誰を恐れるべきか、明確にして、恐れる必要のない者を恐れてはならない。そして弟子たちは、神にとって大切な存在であり、どんな時も神に覚えられていることを信じて、真っ直ぐ使命に生きるべきである。
- 牧師は、聖書をもとに説教をする。聖書から聞き、語る。聖書を思いめぐらし、聖書に聞く。聖書を理解しようとする。その理解が、イエスによって与えられることがある。その時は、臆することなく、語るように勧められている。27節は、それを語っていると言えるのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>父なる神は、弟子たち(私たち)のことを大切な存在を見てくださり、弟子たちのことをよくご存じである。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>人々を恐れてはならない。
- <勧め>暗闇で聞いたこと、イエスから耳打ちされたことをはっきりと語ること。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神さま、今日もディボーションをすることができ感謝です。26節後半から27節が、「人々を恐れてはならない」理由を語る文脈としてわかりにくいです。ただどんな疑問も、解けない疑問はないことを思います。注解書にどんな説明があるのか調べてみます。
人々を恐れずに語るように主イエスは命じます。幸い私たちの国では、信仰の自由が認められ、福音を宣べ伝えるのに何の支障もありません。人々を恐れる必要なく福音を伝えることができます。これは感謝なことです。
礼拝で説教を聞く人たちを恐れて語るのをためらうということはなきにしもあらずです。でもそういうことは滅多にないことと思います。ただ聖書の解釈において、目新しい解釈をして語ろうとする時、語っていいのかという恐れを感じることはあるかもしれません。福音を伝える者は、自分の考えを語るのではなく、暗闇の中で主イエスが語ること、主イエスが耳元でささやかれたことを語るという面もありますから、祈りをもって準備したのなら、大胆に説教で語れば良いと思います。
来月も説教奉仕の機会が当たられているので、準備をしたいと思います。聖書を通して神さまが、主イエスが伝えようとしておられることを聴き取ることができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 注解書で調べる。
- 来月の説教の準備を始める。
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覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない。
これを文脈と遭わせてどう理解するのか。
①ある注解書は、「真理は必ず明らかにされる」と解釈している。
②別の注解者は、覆われている者、隠されている者は、イエスが誰かということである(メシアの秘密)。イエスは宣教し、その教えはみんなが聞いている。しかしイエスが誰なのか、それは隠されている。イエスの復活の後、イエスがメシアであることが明らかになった。暗闇の中で聞いたこととは、イエスが誰であるか、である。それはイエスが復活し、弟子たちが宣教に出た時、はっきりと語る事柄である。
③神がすべてのことを明らかにされる時が来るので人々を恐れることは愚かなことである。すべての事柄が公開されることは、悪を行ってる人にとっては恐ろしいことであるが善を行っている人にとってゃえきである。
注解書を書く人たちは、何らかの説明をしなければならないので、それぞれの解釈が示されていると理解する。どれも説得力のある解釈ではない。
*暗闇、耳打ちとは、イエスが群衆を前にして語ったことではなく、弟子たちに対して語ったこととの説明はなるほどと思う。