2024年7月23日
(内容)
- イエスと弟子たちが舟に乗っていた。激しい嵐が起こり、舟が沈みそうになった。イエスと弟子たちの対比が浮かび上がる。イエスは平然と寝ている。弟子たちは、怖がり、イエスから信仰の薄い者よと叱られる。
(黙想)
- イエスと弟子たちが舟に乗っていた。湖に激しい嵐が起きた。舟は波にのまれそうになった。弟子たちは舟が沈むのではないかと怖くなった。寝ていたイエスを起こし、助けを求めた。
- イエスと弟子たちでは事態に対する認識に違いがある。弟子たちは目の前に起きている出来事を見て身の危険を感じ怖がった。イエスに助けを求める。イエスは嵐でも舟が沈む心配はないと考え、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と弟子たちに言った。
- 小さな舟が突然の嵐で揺れる。水も入ってくる。沈む可能性が生じる。弟子たちは怖がる。この弟子たちの態度は理解できる。しかしイエスは、「なぜ怖がるのか」と言う。イエスからすれば、怖がる必要はないのだ。この違いはどこから生じるのか。
- イエスは言う、「信仰の薄い者たち」。弟子たちは信仰が薄いから怖がるのだ。イエスからすれば、弟子たちに信仰があれば怖がらないですむのである。
- 「なぜ怖がるのか」。そこには非難の意味合いがある。弟子たちはこれまでずっとイエスと一緒にいた。イエスが誰かが分かるなら、怖がるはずがないのだ。イエスを知っているなら、怖がるはずがない。なのに怖がる。だから信仰の薄い者たちと言われる。
・イエスと共にいるということは、イエスに対する信仰を伴うということである。「なぜ怖がるのか」。イエスのこの言葉は、私たちの信仰を問う。 - マタイ14章に弟子たちが、弟子たちだけで舟に乗っている場面がある。するとイエスが湖上を歩いて舟に近づいてくる。弟子たちは幽霊と思い、恐怖を感じた。イエスは「安心しなさい、私だ」と答えた。するとペトロが「私に命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください」と語る。イエスは「来なさい」と言う。ペトロは大胆にも水の上を歩いてイエスのもとに行きたいと願いイエスが許可した。水の上を歩くなんてバカなことを考えるな、とイエスは言わなかった。「来なさい」と言われた。
- ペトロは舟から出て水の上を歩き出した。しかし強い風が吹いていることに気づき、怖くなった。その途端、沈みかけた。「助けてください」と叫ぶペトロにイエスは手を伸ばした。するとイエスは言う。「なぜ、疑ったのか」。
- イエスが「来なさい」と言われた時、それは水の上を歩いてイエスの所に行けることを意味した。実際、ペトロは水の上を歩けた。しかし強い風に吹かれ、怖くなった。その途端、沈みかけた。
- ここでもイエスは「信仰の薄い者よ」とペトロに語った。
- 私たち人間は自分の置かれた状況を見て怖がる。しかしイエスは怖がるなと言う。いや「なぜ怖がるのか」と言う。肉眼で見れば、怖がるのは無理もない。しかし信仰の眼で見るのだ。イエスが共におられるのを見るのだ。そしてこの方にゆだねればいいのだ。イエスは来なさいと言われた。水の上を歩けるのだ。イエスの言葉を信じることが大切。
- イエスは風と湖を叱ると嵐は静まった。この方はどういう方なのかと弟子たちは、驚いた。弟子たちはイエスのことを知るのである。
- イエスがどのような方かを知ることはとても大切である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>「なぜ怖がるのか」と言われる方。私が共にいるのだから、安心していいのだよと言われる方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>人生の色々な場面で、神にゆだね、イエスにゆだねる歩みをする。自分の力で物事をすべて解決しようとしない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。私の耳には、「なぜ疑うのか」という主イエスの声が聞こえるような思いがします。
- 十字架上の主イエスは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。主イエスは神に見捨てられても、神ご自身の存在を疑うことはありませんでした。
- ルカ福音書によれば十字架上の主イエスは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、亡くなりました。
- 天の父なる神さま、私は信仰には疑いが伴うものと考えてきました。太陽に向かって歩けば、後ろに影ができます。太陽に向かって歩く、それが信仰です。後ろに影つまり疑いが生じます。でもよく考えると、光があるから影ができるのであり、光がなければかげもできません。信じるから、疑いが生じます。信じなければ疑いは生じません。疑いは、悪魔がもたらすのか、私の心の頑なさ、あるいは不信仰がもたらすのか分かりませんが、信じる歩みをして行けば良いことを教えられます。「なぜ疑うのか」と主イエスは言います。言い換えると「信じて歩みなさい」と言われていると受けとめます。疑いはいけない、何とか疑わない信仰を持ちたいと願ってきました。それは傲慢な願いだと思いました。
- 天の父なる神さま、今日は一つ心の整理ができたように思います。疑いがあっても気にしないで信仰に歩めばよいと教えられました。
- 今日は、「信仰こそ旅路を導く杖」を歌い、あなたを賛美します。感謝します。
☆与えれた導き
- 讃美歌270番を賛美する。