マタイ福音書10章34~39節 イエスにふさわしく生きる

2024年10月28日

(内容)

  • イエスより、家族を愛する者はイエスにふさわしくない。自分の十字架を負ってイエスに従わない者も、イエスにふさわしくない。

(黙想)

  • 「ふさわしくない」という言葉が3回繰り返されているのが印象に残る。
  • イエスは私たちに、イエスとの関係に生きることを求める。イエスを信じて生きるとは、家族との間に対立をもたらす可能性がある。そこで肉親との絆をイエスとの関係よりも重んじるのは、イエスにふさわしくないという。
  • イエスは平和をもたらすために来たと思うな、平和ではなく、剣をもたらすために来たという。強烈な言葉である。イエスを信じイエスのために生きることは家族との関係に亀裂をもたらす可能性がある。福音を信じて生きる人は、そうでない人と価値観が異なるので、家族間ではそれが問題となることがある。
  • イエスは弟子たちを派遣するにあたりこれらの言葉を語った。なぜこのような言葉を語る必要があったのか。イエスが選んだ12人の弟子に、このような問題があったのだろうか。福音書は明確には書いていない。
  • イエスは、3回、「わたしにふさわしくない」と語っている。イエスを信じる私たちの歩みがイエスにふさわしいかどうか問題にされる。キリスト者は、イエスにふさわしい歩みをすべきなのだろう。私たちは色々な人間関係の中に生きているので、イエスにふさわしい歩みをする時、その人間関係に問題が起きる可能性がある。
  • この箇所に、自分の十字架を担ってイエスに従うことが語られる。16章で弟子たちがイエスのことを告白した時に、イエスが弟子たちに語った言葉と同じである。
  • 自分の十字架を担うことは、イエスのために命を捨てることにつながる。自分の命を得ようとする者はそれを失い、イエスのために命を失う者は、それを得る。意味深な言葉である。自分のために生きるのか、イエスのために生きるのか。イエスのために生きる人は、イエスにふさわしい人であり、命を得る。
  • 日々の平凡な生活の中で、自分は何のために生きているのか、問われる思いがする。
  • 今の僕にとって、イエスから見てのふさわしさとは何か。僕から見て、自分のふさわしくなさは何か。それは一つある。老いを生きる僕の最大の問題である。御国の希望を確かに信じることである。悪魔がもたらす「神の国は本当にあるのか」という疑いを克服することである。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは、弟子たちにイエスにふさわしい者となることを求める。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスから見てふさわしいキリスト者になること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
  • 今日は、主イエスに対するふさわしさという点で、私の課題が示されました。御国への希望をたしかにするという課題です。これは理性の作業で克服できる課題ではなく、聖霊による導きが欠かせません。聖霊の導きを祈ります。
  • しかし理性の作業も必要です。それは聖書が語ることの真理性です。聖書が語る真理が、人間の思いを越える、すばらしい真理であると受けとめ、聖書の前に理性がへりくだることです。その意味で聖書の探求は欠かせません。
  • 11月10日の説教奉仕に備え、説教箇所の聖書を繰り返し読み、黙想したいと思います。
☆与えられた導き
  • 聖霊の導きを祈る
  • 聖書を黙想する。

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