2024年6月25日
(内容)
- 重い皮膚病の人が、イエスは自分の病気を治すことができると信じて、イエスのもとに行った。イエスは彼の信仰を見て、彼を癒やされた。信仰を持って主イエスのもとに行くことが大切である。
(黙想)
- この病人は、イエスは自分の病気をいやすことができるとの信仰を持っていた。そしてその信仰を言い表した。
- その信仰に答え、イエスは彼をいやされた。そして「だれにも話さないように気をつけなさい」と言った。
- 病気が奇跡で癒やされれば誰だって他の人に話したくなる。イエスは、誰にも話すなと言う。そして話したくなるから、話さないように気をつけなさいと言う。話したいとの気持ちが起きたら、そうだ、話すなとイエスが言われたことを思い出し、話すのを思いとどまるのである。
- イエスはなぜ、癒やしの出来事を誰にも話さないようにと注意したのか。
- もし話すとしたら、それはどんな気持ちからか。まずそこには喜びがある。いやされたのだから。当然この喜びをだれかに伝えたいとだれもが思う。
- 「イエスが自分を癒やしてくれた。イエスってすごい人だ」と語るだろう。人間として話したくなるのは当然だ。うれしいことは伝えたくなる。
- マルコ福音書でもこの出来事が書かれていて、そこではいやされた人は、イエスの言葉にもかかわらず、大いにこの出来事を言い広め始めたとある。その結果、イエスは公然と町に入ることができなくなったと書かれている。イエスは、ご自分の宣教が邪魔されることを恐れて「だれにも話さないように気をつけなさい」と言われたのか。それ以上の意味があるのか否か。
- イエスは供え物をささげて病気が癒やされたことを証明しなさいと告げる。これは日常生活にとって大切なことである。重い皮膚病の人は、他者との交わりを禁じられていたから、病気が癒やされたことを証明して、人々の輪の中に入る生活を始めることができる。この証明をすることは忘れてはならない。そのために、だれにも話さないようにと言われたのか。
- もし人々に自分の身に起きたことを語って、人々の注目を浴びている内に、病気のいやしを証明することを忘れてしまうことがあるかも知れない。そうならないように、「話さないように気をつけなさい」とイエスは言ったのか。しかし病人としての隔離された生活を思うと、証明することを忘れることはないように思う。
- ではなぜ、イエスは誰にも話さないようにと戒められたのか。
- この病人は、イエスと出会い、いやしを経験した。いやしはきっかけである。イエスを信じる歩みを始めるきっかけである。大事なことはイエスを信じる歩みを始めることである。
- 自分の身に起きたことを人々に伝えることは、喜ばしいことかも知れない。でも一通り、話し終わればそれでおしまいだ。新しい生活は始まるかも知れない。病気の苦しみから解放された生活で喜ばしい生活である。でもそれはイエスのいない生活になりかねない。
- もしこの人がだれにも話さなかったとしよう。彼の心にどんな変化が生まれるのだろうか。人に話したくなっても、話さないように気をつけなさいとのイエスの言葉を思い出し、話さない。なぜイエスは話すなと言われたのか、考えるだろう。その答えが出るのだろうか。それは分からない。
- いずれにせよ、詳細は分からない。この病人が、イエスはいやすことができると信仰をもってイエスに近づいたことを模範としたいと思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>重い皮膚病を持つ人をいやす方。
- <御子>癒やしの出来事を誰にも話すなと言われた。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>信仰をもって共にいてくださるイエスに近づくこと
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日は信仰をもって主イエスに近づく病人の姿を模範としたいと思いました。私もまた、共にいてくださる主イエスに近づきたいと思いました。どんな願いをもって主に近づいたらいいのかと思います。
- デボーションで与えられた課題があります。この課題を解決できるように祈りたいと思います。主による解決を信じて祈ります。
☆与えられた導き
- デボーションで与えられた課題の解決を主に求める。